16day. 第一回遭遇

 屋敷での生活にも慣れ、お気に入りの場所や周囲の状況にも目が向くようになった。木々に覆われた屋敷から街は見えないが、庭の薬草やハーブ、香辛料など、まだまだ目を向けて覚えなければならないものは沢山ある。その内、料理も覚えようと思っていた。この三本指の手も、使いようによっては巧みにフライパンを操る。

 昼食としてキャベツと鶏肉のポトフを煮込む主人の隣で、フライ返しの良い持ち方を考えていた時に、その音は貫くように鼓膜を揺るがした。金属と金属が鳴り響く不協和音。危険を知らせるシグナル。それは主人の部屋から流れ出していた。
「奴が来る」
 私に言ったわけではあるまいが、主人は静かにそう呟いた。
「ネコ! 食堂に居る。集まれ。オト、すまないが、部屋から水晶のペンデュラムを持ってきてくれ。加工していない方だ。六角形のな」
 主人は火を止め、テーブルの上に屋敷の見取り図を広げながら、流れるように指示を出した。ネコが猫用の扉を潜って入ってくる、右目と左目(これは右目があるほうを右目、左目があるほうを左目と呼んでいる。主人ではなく私がつけた。主人はどちらもネコと呼ぶからだ)、二匹ともだ。
 私は主人に言われるがままに階段を駆け上がり、引き出しの中から水晶のペンデュラムを咥える。部屋の壁に掛けられた銀のカンテラが、火を灯して揺れていた。いつもあの中は空だというのに。炎の熱気で鐘が震え、耳を貫くような不協和音を発していたのだった。何かとんでもないものが来るのだと、私は急いて階段を飛び降りる。離れているうちに、主人に害が及ぶ事を恐れた。
 戻った時、主人は相変わらずの顰め面で屋敷の見取り図と睨めっこをしていた。私がペンデュラムを渡すと、ご苦労、と笑顔を見せてくれる。少しだけ、緊張が解れた。
 ペンデュラムを持った主人の手が見取り図の上を滑らかに移動する。不協和音は続いている。徐々に大きくなりながら。
「此処か」
 バチン、と弾かれるような音に、私は見取り図を覗き込んだ。私達がいる場所の直ぐ隣、テーブルを挟んだ向こう側を指したペンデュラムが、その場所を指しきれず、弾かれながら揺れている。反作用だ。水晶の力を拒むものがある。
「好都合だな」
 主人の言葉に耳を疑った。好都合だ、と言ったのか、今。直ぐ隣に来る何かを思って。
「そんな不安そうな顔をするな。此処ならば直ぐに終わるよ、オト」
 不敵に主人が笑む。屋敷の見取り図を裏返すと、びっしりと文字の書き込まれた裏面が現れた。ただの文字ではない、黒のインクを何層にも重ね、一定の法則を持った魔術式だ。その上から、紫のインクで魔術円が描かれている。それも重ねられて。
 主人は裏面を表にして、ペンデュラムが反応した場所へ置き、ネコたちを傍らに引き寄せた。古木に水晶が埋め込まれた杖を持ち、緩やかに穏やかに、呪文を紡ぐ。低い声はその場所から発生した風によって霞む。相対するようにバチリと火花が散り、屋敷の見取り図に降り注いでいた。
 ぐにゃり、と見取り図の上で空間が歪む。主人は鋭い眼差しで空間を睨むと、杖を持った手を突き出した。同時に両側のネコの眼が眩いばかりの光を放つ。
「――強制退去!」
「元気にしてたかい、My sweet honアンギャアアアアアア」
 恐らく、My sweet honey(私の愛しい人)という予定だったであろう声――男の声だったが――は、指先からすりこぎで身を削り取られるような悲鳴に変化して消えていった。風が収まり、舞い上がったテーブルクロスがひらりと落ちる。後に残っているのは、火花で焼け焦げた見取り図だけである。
「成功したか。よし、ネコは戻っていい。良くやったな、あとで鶏肉を奮発しよう。オト、昼飯にするぞ」
 ネコたちの頭を撫で、何事も無かったかのように昼食の支度に戻る主人。ネコたちも喉を一度鳴らしただけで、慣れているのか出ていってしまう。
「何時もの事だ、気にするな」
 説明を憚る主人の口調。口にしたい話題ではないらしい。そうですか、という意味を含めて喉を鳴らし、私は放り出したフライ返しを拾いに行った。気にはなるけれども、無理して聞きだすつもりはなかった。聞き返す手段を持たないのだ。何時もの事なら――そのうち、聞く機会もあるだろう。
 こうして、彼との第一回遭遇は幕を閉じた。それにしても、一体誰だったのだろうか。あれは。