安静令は一日で解かれた。私は主人と共に仕事部屋に入る。
主人の仕事部屋は散らかっている。XやYやら、△∵やらの記号が描かれた設計図や、色鮮やかなインク、それぞれに対応させた羽ペンに、十字に組まれた短剣や杖、栞の挟まった書物もあれば、開いたままの魔術書もある。
何処に何があるか、主人はある程度把握しているらしい。どうにも、置く場所に癖があるようだ。設計図は机の左下か一番上の引き出し、直ぐに使わないものは日付を書いて巻き、箱に入れられる。分類待ちは箱の横。本は専ら右上、ただし、使っているものは右の戸棚に置きっぱなしにされる。短剣は引き出しに。杖は机の隣の木箱。そのような分類はされているものの、ざっと数えても短剣だけで十種類は越えるので、探すには手間も時間も掛かるのだ。
主人の仕事がはかどるよう、不用意に置かれたものを整理し、必要な物を見つけ出すのが私の役目である――と思っていた。
私が例のハーブに蓋をして片付け、魔術式を描くための銀の粉の袋を手渡した時、主人は今初めて私の存在に気が付いたような顔をして、まじまじと私の姿を見ると、
「駄目だ」
と言った。
渡した袋の番号を間違えたかと不安になって、きゅう、と鳴くと、主人は銀の粉の入った袋を机に置いて、首を振った。
「駄目だ。オト、私の世話を焼くな」
袋はあっていたらしいけれども、違う不安に捕らわれて、私はまたきゅうと鳴く。
「お前は有能すぎる。私よりも整理が上手いし、番号付けも面倒くさがらずにこなす、危ないものがあれば退けるし、何が欲しいと言えば直ぐに取ってくれる。次に何が欲しいか、推測することもできている」
主人は酷く辛そうな顔をして、私を見た。
「それでは駄目だ。依存してしまう。お前が居なくなった時に辛くなる。何かするたびに思い出す。私は一人で仕事ができなくなる。それでは駄目だ」
駄目なんだ、と何度目かの呟きを零して、主人は私の頭を撫でた。あの時と同じ顔。降り注ぐ本から庇った時と同じ顔だった。
「だから、私の世話を焼くな。私は大人だ。一人でできるようにならねば」
いつかの喪失の為に、今の助けの手を捨てるのですか。
「いいな?」
諭すように、確認するように言われて、私はわかりましたというように鳴くしかなかった。主人はまた仕事を再開する。羊皮紙の上に下書きされた魔術式。銀の粉を混ぜた黒インクで、術式をなぞれば完了だ。
だが、主人は筆を見つけられずにいた。筆も銀粉、金粉、色ごとに分かれていて、本数が多いのだ。嗚呼、その引き出しではなく、隣の机の上の、インク瓶の右に置いてあるのに。
とても見ていられなかった。私は、そっとそのペンを取り、机の隅に置いて裏に隠れた。
「……オト」
見られていたようだ。主人が私の名前を呼ぶ。
机の裏から顔を覗かせると、主人の呆れ顔がある。
「お前は……仕方の無い奴だなぁ」
そういって、呆れ顔のまま主人が笑った。筆を手の平の上で回しながら、ふぅ、と溜息を吐く。羊皮紙の隅を片手で押さえ、筆先をインクに落としながら、独り言でもするように小さな声で呟いた。
「お前が、私より先に死ななければ良いんだ」
続ける。
「お前が、私の生きている間、ずっと私の手助けをするのであれば問題はない。私が、伴侶と出会い、子を育み、いつか死ぬ日まで共にいるのなら、問題はない」
主人の青い目が、私の姿を映す。
「覚悟はあるか」
そこまで隣にある覚悟はあるか。主人はそう問うていた。
私は高らかに一声鳴いた。主人の目元が柔らかく緩む。
「……そうか。これは契約だ。私の使い魔でいたければ、違えるなよ」
主人が小さく笑う。私は嬉々として羊皮紙を押えに机の上に乗った。机の上に積まれていた本を落として、主人に呆れられたが、許してもらう。
今日、ようやく、主人の使い魔になれた気がした。