屋敷に戻ると主人は言った。使い魔を生み出すには広い場所が必要なため、近場では儀式ができなかったのだと説明してくれた。主人の屋敷からは一日では着けない距離まで来たらしい。屋敷方面へ向かう馬車を捕まえながら、主人は言った。
「戻る前に寄るところがある」
勿論、私が反論するはずもない。同意するように喉を鳴らしただけだった。馬車から囲む好奇の視線も、主人の『いかにも魔術師』という雰囲気に当てられて、納得と畏怖を半々に逸らされる。使い魔が馬車に乗っているのは珍しいのだろうか。
通りの硝子窓に映った自分の姿を見て首を傾げる。主人は私を大トカゲと呼んだが、実のところ、私は私の姿を大トカゲと思えなかった。成人の二分の一ほどの背丈。短い前足、太い後ろ足。二本足で立つ。身体の表面を覆う鱗。トカゲというよりは、羽が鱗に変わった鶏、良くて硬い角のないドラゴンに例えられる姿。それでも主人は私を大トカゲと呼んだし、私もそれでもいいかと思い始めていたので、自分の姿を気にしなくなった。主人にとって大トカゲなら、私は大トカゲだ。私はそれで満足した。
馬車を降りた主人は、迷う素振りも見せずにどんどん裏の路地へ入って行った。街の裏は暗く汚い。黄色い染みが多く目立ち、悪臭に満ちていた。腐敗臭が常に隣にあった。主人は顰め面一つせずに進んでいく。時々確認するように振り返ってくれる主人の行動がありがたかった。しかし、主人の行動に制限をかけていると思うと悲しくなる。
十分ほど歩いて、着いたのは今まで歩いてきたどの道よりも薄汚れた階段だった。汚物が垂れ流されて、鼻が曲がりそうなほどの悪臭を放つ。
「足が汚れるかもしれないが、少しの間我慢して進んでくれ」
主人の言なら従わないわけにはいかない。主人は慣れているのか、汚れなど気にせずに階段を下る。濁った泥が足について気持ち悪かった。下れば下るほどに階段の汚れはなくなっていった。階段は石のみではなく、やがて獣の毛の絨毯になり、羽毛になり、決め細やかなシルクになった。この頃には足の汚れはなくなっていた。
階段を下ると一つの扉。主人は悠々と扉を開ける。
「久しいな、ラースイース」
「ノヴェレイアの…嬢……か」
部屋の中は清潔だ。長机中心に四方に並ぶ高い本棚。部屋の中央で、黒い衣に全身を覆った男が、ぼそぼそと告げた。異様さに瞬時警戒の体制をとるが、主人の笑みを見て解く。
「日に日に汚れるな、此処への道は」
「……傲慢ちきで綺麗好きな…術師への挑戦、だ……最近は…魔術を使って、来る者も多い。多少、結界を張った…………この道を歩めぬのなら……帰れば良いのだ…」
「相変わらずそうで安心した」
「そちらも、息災の…ようだな…」
彼と主人は知人であるらしかった。ラースイースと呼ばれた彼の歳は、はっきりとはわからない。二十代後半、または三十代前半。黒い布の下に潜む肌は、血管が青く見えるほど白い。
「『ソロモンの境界』は読み終わったか? 『七つの大罪』は?」
「まだ…だ。一ヶ月前に……尋ねた、ばかりだろう……もう少し、辛抱を覚えろ…」
「私なら三日で読み終わる。ラースイースは読むのが遅い」
「仕事の合間では…時間が、ない……『荒野の悪魔録』ならば……読み終えた…持って行け」
「感謝する!」
主人の声が喚起に輝く。隣で話を聞いていたが、私にはさっぱりわからない。
「今日の用は……それだけか…?」
「いや、真名の件だ」
「ほう……嬢も、使い魔を……得たか。彼、かね…」
どんよりとしたラースイースの眼が私を捕らえた。彼の黒い目に捕らわれると、言いようのない悪寒が背筋を駆け抜ける。暗い暗い暗い暗い胸の奥の部分まで見透かす喰らい色。
「怯えなくて良い」
主人の声で、我に返る。暗い視線は逸らされていた。体の緊張が解ける。
「ラースイースは真名師だ。生まれたばかりの使い魔はこの世界に対して影響力が薄く、また、実態も確実なものではない。つまり、消えやすいということだ。そんな使い魔に対して、真名師はこの世界に繋ぎ止める真名――杭を与える」
「名、とは……呪詛だ………繋ぎ止め、そのものに、意味を……与える。そのものを…呼び、振り向かせる……ことができる」
主人は軽く肩を竦めた。
「真名を与えるのは真名師しかできない。本質に合わない名を授ければ使い魔は消える。かといって、最小のものを選ぶと、使い魔はこの世界に対し、ほとんど影響力を持たなくなる。用は、見極めだな。ラースイースは……真名に関して世界で五本の指に入るが、どうも偏屈でいかんね」
「あわぬ奴が……多いだけだ。傲慢な術師は…好かん」
ラースイースはぼそりと呟いた。気の合う奴にもあそこを歩かせるのは異常だぞ、と、異常な道を歩いてきた主人はからからと笑う。異常だと思って来なくなるならば気が合わなくなったのだと、ラースイースは返す。
そうか。あの汚臭に満ちた道は、裏路地に扮した彼の防御結界だったのだ。
「で、ラースイース。真名は決まったか? ”咲き誇る前の蕾”やら”宵闇の帳”やら、あんな大層なものでなくて良いんだが」
そういうものが真名であるらしい。本当に、大層なものであると思う。そんな名を付けられたら、名前に潰されてしまう。
「彼に、真名は……必要ない……既に…彼は持っている」
主人は胡乱げだ。私も疑問だった。
「……君以外に真名師には会っていない。使い魔の名前を呼ばせても」
「彼の真名は…”大蜥蜴”という……聞き覚えは、ないかね…」
”大蜥蜴”、大トカゲ、オオトカゲ。主人の動きがぴたりと止まった。昨日の今日だ。忘れられては、いないと思う。私が初めて目を開けた日に、私を呼んだ主人の言葉を。
眉間の皺に手を当てながら、主人は喉から搾り出すように言う。
「確かに…言った。儀式の途中に。しかし、あれは……種族のようなものであって、名では」
それでも特別だったんです、と人の言葉では告げられない。口内に並ぶ研いだような牙の間から、ひゅるりと息が漏れただけだった。
「使い魔が…呼ばれたと思い、納得し、満足すれば……真名だ。存在に、刻み付けるには…技術が…いるがね。嬢が生み出した、ゆえに……刻みつけも…しやすかったのだろうが、驚きだ…嬢…真名師の才能が…あったのだな」
主人は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「使い魔を得ること事態が初めてだ。変えることは?」
「…出来ない。しかし、”大蜥蜴”という名は…悪くない。蜥蜴は…火の可能性を秘め、大きいという…意味が、付くのならば…空の使いの夢を秘める……変化に、柔軟だ。直感で…つけたのなら、才能だ……嬢…術師など…止めて、真名師に……なる気はないか…?」
ラースイースの問いに、主人は顰め面を作る。何を言っているのかと言わんばかりだった。
「断る。ただの偶然だ」
「……言うと、思っていたがね……しかし、気をつけろ…嬢の言霊は…深い」
背を丸めたラースイースの言葉。主人の口元がへの字に引き結ばれる。鬼気たる眼差しは、ラースイースを射た。ラースイースはあの暗い眼差しで主人を見る。空気が張り詰める。どちらも笑い出さない睨めっこ。
やがて、主人はゆっくりと溜息を吐き出して、私を見下ろした。
「お前は、変わっているね。大トカゲと呼ばれて、納得して満足して……真名にしてしまうのだから。本当にそれで良いんだね?」
私は喉を鳴らした。嬉しかった。主人に真名を与えられたことが。主人の眼差しが柔らかくなったことも嬉しかった。
負けたよ、と主人は呆れたように、それでいて微かに嬉しそうに笑った。それを隠すようにくるりと体を回して、ラースイースに言う。
「では、”大蜥蜴”のオトで登録してくれ」
「オト……?」
ラースイースが呆気に取られる。私は始めて、彼の目の中に感情というものを見た。
「大の”オ”で、蜥蜴の”ト”だ。オト。音にも通じる。良い名だろう?」
自信ありげに主人が胸を逸らしてから、ややあってラースイースは告げた。
「……嬢は…やはり、真名師にはならんほうが…良いな…センスが、ない」
「余計なお世話だ」
主人は顔を顰めて、ふぃっと明後日の方向へ顔を逸らした。ラースイースは笑った。私も笑うようにくるると喉を鳴らした。
私は名を付けられた。真名師ではなく、主人から。私の誇りとすべき名。
”大蜥蜴”オト、と。