大通りから角を一つ曲がった路地。通りと通りを繋ぐ道だ。裏路地と似通ったところはあるが、こちらの道は広くて明るく、走れば一分とかからず抜け出せる。大通りへのちょっとした近道。
 そこを歩くレラプスは、シャリシャリと口の中で甘酸っぱく広がる果肉を貪ることで苛立ちを発散していた。いわゆる、やけ食いである。
「酸っぱいんじゃ、このリンゴめがー!!」
 そして、八つ当たりである。気に入らないのなら食べなければ良いのだが、それを突っ込むイルジィンや店長がいない。ついでに言えば、一般人も。この路地は人通りが少ないのだ。
 ゴミ箱の谷を潜り抜け、たまたま通りかかった黒猫がフシャーと鳴いた。黒猫にガンつけられたレラプスは、キョェェェェェサササィィィェェ、と微妙に発音しにくい叫びで対抗し、見事勝利を収めて黒猫を追っ払った。
 脱兎の如く一目散に逃げていく黒猫を見て、レラプスは忌々しげに舌を打つ。
「つまんね」
 歯に挟まったリンゴの皮を舌で抜き取り唾液と共に吐き出して、レラプスは歩みを再開した。
 レラプスを苛立たせているのは、少女の面倒を見ることに許可を出した後の会話だ。この果実のように色鮮やかに、しかし、果実とは異なり口に含めば苦味を伴う、記憶。


「何で庇った?」
 縄を解かれて自由になった手首を回しながら、あの後、レラプスはイルジィンに問いかけた。脅すような低い声音も、見るものを怯ませる鋭い眼光も、イルジィンは素知らぬふりで受け流す。
 何時も、この調子で、頭にくるほどの正論を述べるのだ、この男は。
「あの餓鬼について不可解な点が多すぎる。”ニュオプレドデイ”が追う理由を含めてな。せめて、俺の”み”た魔女の正体がわかるまで、手放すべきではないだろう。ここに置いておけば、問題があった場合の処理も容易い。それに、」
 イルジィンは一拍置いて、続けた。
「ギニーの良い相手になる」
 レラプスは嘲あざけるような笑みを浮かべた。
「店長に相手が必要だって?」
「ギニーを使い続けたいのであればな」
 あっさりとしたイルジィンの肯定に、レラプスは面食らった。
 肯定が返ってくるとは予想していなかった。この問いかけに、彼は、イルジィンは、否定とも肯定ともとれない、はぐらかすような返事をするものだとばかり思っていた。それを受け流すつもりでいた。
 予想を裏切って告げられる明確な肯定。
 この男の場合は、忠告でもある。
 それで良いのか、と。
 考えろ、と。
 そう提示されると、良いと思っていたことでさえ、良いと断言できなくなる。
 何かしら、見落としがあるような気がして。
 レラプスは、困惑の色が濃い金の瞳を瞬かせて視線を逸らし、小さく、呻くように呟く。
「……考えとく」
 レラプスは回れ右をして、足早に店の出入り口へと向かった。
 その場に止まるイルジィンの気配が、踏み出すごとに背後に遠く離れる。ここにいたくなかった。渦巻く胸中を悟られたくなかった。混乱している。何に不満を覚えているのか、自分でもよくわからない。消化できずに溜まる、胸の靄もやに吐き気がする。皺を刻んだ顔を上げずに俯いたまま、レラプスはドアノブに手をかけて扉を開いた。
 外は山で、真っ白で、冷たくて、吹雪だった。
「……………うわぁ……一面の銀世界って素敵だね。まるで、醜いものをすべて浄化するかのような白。でも、白すぎて前が見えないんだ……感激の涙も凍りそうだよ」
「そうだな」
 イルジィンの淡白な同意を得てくじけそうになりながらも、全身に雪を貼り付けたレラプスはゆっくりと扉を閉めて開けた。
 例え叶わぬとも、格好よく去る努力を惜しまない。
 落ち着くんだレラプス。そう、落ち着け。ここは繋がる場所が変わるドア。店長がいれば思い通りの場所にいけるが、それ以外はランダムドア。どこに繋がっても気にすることじゃない。
「雪山でも火山でもどんとこいってんだー!」
 気合を入れたレラプスの目の前に広がるのは、意外にもまともな景色。爽やかな水の音。今度は、森の中の泉、らしい。安堵するレラプスの眼前で、見ぬ知らぬお姉さま方が水浴びをしていた。
 ただし全裸。
「わー……」
 もうこれしか言えないレラプス。
 平和の象徴のようにのーんびり鳴いていた鳥達が、決死の面相で我先にと飛び立つ様子は、これから訪れる悲劇を告げているようだ。筋肉隆々としたお姉さま方が、ギンギラギンに輝く剣やら矢やらナイフやら手に取るのを、レラプスの背後でじっくり余すところなく見ていたイルジィンが、ぼそりと呟く。
「俺的には手前の金髪が好みだ。胸の形も顔もす」
「しっつれいいたしましたぁぁぁっ!!」
 レラプスは、人間の関節を完膚なまでに無視した九十度反り返りで、飛んできた鋭い刃達を避け、パタン、パタン、バタンバタンバタンバタン、高速で扉の開け閉めを繰り返す。
 背後から血の匂いがしたということは、二・三本イルジィンに刺さったかもしれない。
 開いて閉まる扉の中、海が見えたり(魚が飛んでたり)、漁船が見えたり(食われてたり)、砂漠が見えたり(いきだおれてたり)、メイド姿のマッチョメンが見えたり(いやんあふんだったり)したが、それもすぐさま扉の奥に隠される。
 まともな街中が見えた時には、レラプスの体力は赤ゲージになっていた。レッドゾォーン、危険信号である。
「うぉぉぉぉぉ、ジィン長のばかぁぁぁぁ」
 センス皆無な名前を罵倒しながら、レラプスは街中へ走り去った。

 そして、現在に至る。
 どすどすと足を踏み鳴らして歩きながら、レラプスは不満げに文句を零す。
「まったく、覗くならもうちょい見つかり難いところに繋いでくれないと困るんだよなぁ!! 茂みの中とかさ! 死に掛けたし!」
 回想の前半と後半で、苛立ちの質が違うことに気が付いてないレラプス。
「店長も男だからなぁ。覗くのはしょうがないと思うけど」
 水浴びのお姉さんを一人覗いてる店長。切なすぎてちょっぴり泣きたくなった。
 八の字になった眉を隠すように、レラプスは食いかけのリンゴを顔の前に翳す。表面を覆う赤い皮に、並びの悪い歯型が一つ。
「店長を……使い続けたいのであれば、かぁ」
 短くて数日、長くて数ヶ月、レラプスは店に戻らない。大抵はイルジィンを連れて。
 その間、殆ど店長は人と関わりを持たずに過ごす。
 あの店の中、一人。
 だだっ広い空間の中、一人。
 長い廊下、軋まない階段、汚れない床、火の灯らぬ暖炉、使われないグラスと皿、彫像、剥製、絵画に、差し込まれない部屋の鍵。
 どんな気持ちで、待っている?
 レラプスは立ち止まって天を仰ぎ、渦巻く全ての感情を吐き出すように長く息を吐いた。

 ―――君が望んだことだろう、店長。

 吐き出す息に乗ることのなかった言葉が、喉の中で粘ついた蜷局とぐろを巻いた。苦い記憶を甘い果実に混ぜても、一向に気分は晴れないまま、
「ぐぺぇ!!」
 レラプスは馬に踏まれたヒキガエルのような叫びを残して、横から吹っ飛んできた物体に跳ね潰された。ぶちゅっと、そう、ぶちゅっと。非常にあっけなく高速で。
「ヒャッハハハ!! 凄腕の護衛とやらも大したことねェなァ!!」
 そして、鼓膜を叩く高笑い。
 聞いたことのない、声だ。
 他人とは、時間とは、偶然または運命とは得てしてそんなもんだ。こっちの事情や心情なんてお構いなしにやってきて、多くのものを与えて砕く。それが、幸になるか不幸になるかは場合によるのだろう。
 予想や避ける努力は出来ても、選択できることではない。
 それでも。
「返せ僕のシリアス……」
 横から飛んできた物体、もとい、建物の裏口から吹っ飛んできたらしい汗臭いほど屈強な男性の下敷きになりながら、レラプスは哀愁を漂わせてひっそりと呟いた。