いらない、いらない。
 見たくも無い。
 あんなヤツ、いらない。
「情報が得られないのなら、あの子は用無しだ。捨てたって構いやしないだろ?」
 表面に出ていない店長の動揺を知りながら、何食わぬ顔でレラプスは語った。朗らかな笑みが変化しなくとも、レラプスは店長の心境の変化がわかる。それなりに、付き合いは長い。
 まず、一瞬、手が止まる。動作から動作へ移る一瞬の葛藤のように、止まる時間も実に自然なので、よくよく観察していないとわかららない。今で言えば、「捨てる」という答えを告げられてから、ふきんを洗う動作へ移るまでの時間。
 一秒よりも短い間。
「捨てますか」
 いつもと違う、その、ささやかな違和感。
「どうしたの、店長。あの子に情でも移った?」
「そうかもしれませんなぁ……」
 苦笑しながら、店長は洗ったふきんを絞り、畳む。それから、カウンターの向こう側でまた何かを始めたようだったが、イスと共にうつ伏せになっているレラプスの視界には入らなかった。
 店長からも、もちろん、レラプスのことは見えないはずだ。
 レラプスは笑っていた。笑みを作るのは優越感と嗜虐心。それらを隠そうともせずに、ゆっくりと、口にする。
「僕の命令が、聞けなくなるほど?」
 たった一言。放った一言で、場の空気が凍りついたことに、レラプスは満足した。さぁ、と凍てついていく空気を肌で感じるのは、いっそ清々しい。
 陶器の擦れる音がしているということは、店長は戸棚の整理でもしているらしい。形だけは何時も通りに動いていく。この場を満たすのが、春の陽気のような心地よさから、諦めを含んだ冬の寒さに変わっただけのこと。
 変化させたのは、自分だ。
 そのことが、レラプスを満足させた。
「私は」
 控えめに店長は息を吐いたようだ。カタン、とこれは戸棚を閉めた音だろう。
「――ギニー」
 会話に滑り込んできたのは、イルジィン。
 イルジィンはレラプスの背後、テーブルに備えられたイスの一つに腰を下ろしていた。ただ、事の成り行きを見守っていただけのイルジィンが、諭すように店長の名を呼んだ。
 一言、告げる。
「茶」

 茶。

 一瞬、レラプスは自分の耳を疑った。すぐさま、それを否定する。
 聞き間違えのはずがない。この距離なら、イルジィンがシンバルを叩きながらサンバリズムで高速ステップを踏んでいても、彼の声を聞き取る自信がある。
 彼は、お茶をご所望のようだ。
「どうした?」
 二人分の呆けた眼差しを、その身に燦々と受けつつも、イルジィンは普段と同じ調子で言った。ぶちぶち、と、レラプスの額に、血管が浮き上がる。
「…………こんな、こんな、…久々に、ようやく、得られた、僕主権の、僕の威厳が垣間見れるかな、的、シリアスな会話中に…なんで、きぃーみぃーはぁー……」
「ひしゃげたカタツムリのような格好で凄んでも、笑えるだけだぞ」
 ミノムシ人型イスからひしゃげたカタツムリに昇格、したんだろうか。
 シリアスな雰囲気は音を立てて跡形もなく崩れ去った。ガラスが崩れるよりも、脆く、容易く、ゴミ屑となる。この音が聞こえたわけではあるまいが、イルジィンは、少し考える仕草を見せた後に続けた。
「自力で起き上がれないことを考慮すれば、お前は食害性害虫以下なのだろうが…」
 カタツムリ(食害性害虫)や、ミノムシ(食害性害虫)以下と言われるよりも、食害性害虫以下と言われる方が、ダメージがでかい。害虫とつくあたりが、特に。今の僕は何にも勝てないじゃん。陸に打ち上げられた魚類には勝てるかもしれない。肺呼吸で。
 レラプスの威厳が、ホウキとチリトリでかき集められ、ゴミ袋に捨てられていく。
「僕の威厳が、使用済み鼻紙と同じ袋に入れられていくぅー」
 脳内で繰り広げられた映像に、打ちひしがれるレラプス。脳内妄想に、落ち込んだり気持ち悪くなったり凹んだりと、色々忙しいレラプスへ、イルジィンはさらりと言った。
「使用済み便所紙と一緒でなくて良かったな」
 そいつは究極だ。
 時間をかけて回復したのか、レラプスの取り乱し様で冷静さを取り戻したのか、我に返った店長が戸棚のティーカップを手に取った。
「ハーブティーで宜しいですかな」
「嗚呼。二つ、な……一つは、やってくれ」
 イルジィンが顎の動きでレラプスを示す。
 レラプスは、ひょいと片眉を吊り上げた。何かが違う。
 遣ってくれ、殺ってくれ、ヤってくれ。どれを当てはめても、しっくりこない。微妙に、あげてやってくれ、以外の何かが含まれている気がする。
 店長は、やや伏せた目でレラプスを見た後、
「畏まりました」
 と、返事をして、てきぱきとハーブティーを入れ始める。
 はぁ、とレラプスは溜息をついた。少女のことは次回に先延ばしにされたらしい。上手く、とは言えない強引さはあるものの、イルジィンは店長との衝突を避けさせた。
 実のところ、少しだけ、感謝をしている。
 湧き上がった酷く残酷な嘲りの感情。それは一時的だった。憤りに似ている。こうやって間を置けば、どうしてあんなに傷つける物言いをしたのかわからない。
 ただ、自分の子供のような部分が情けない、と思う。頭を冷やさなければいけなかった。冷静になって、もう一度考え直さなければ。個人の感情を捨てた最良の方法を。
 紅茶のいい匂いが漂ってくる。ハーブティーは店長の手作りだ。ハーブを育てるのも、店長の趣味らしい。他にも、料理、掃除、彫刻などなどなど、数えたことはないが、実に多彩な趣味を店長は持っていた。この店に何が存在していても、店長が「趣味です」と言ってしまえば、納得してしまうほど。
 趣味、というのは便利な言葉だ。はぐらかすにも、追求を避けるにも。
 そんなことを考えている最中、レラプスは見てしまった。ティーカップに、タバスコ――唐辛子を使った、とても辛い赤液体――が、丸々一本入れられたのを。
 それも趣味か、店長よ。
「どうぞ、イルジィン殿。こちらは、レラプス殿へ」
 店長はティーカップをイルジィンへ手渡した。
 その隣に、レラプス用を置く。
「待って! 僕用のカップに赤い液体が注がれたような気がしたんだけど!」
「気のせいでしょう」
 店長はにべもない。
 レラプスの中に湧き上がる危機感と焦燥。
「僕はいいよ。縛られたままじゃ、飲めないしさ! 折角だけど、辞退させてもらうよぉぉぉおぉ?!」
 言葉途中で、視界が目まぐるしく入れ替わる。
 背後に反れた頭を持ち上げると、イルジィンが、よっこいしょお、とでも掛け声をかけそうな格好で、レラプス――を縄で巻きつけているイス――を起こしているところだった。カウンターを正面に、イスはしっかりと立てられる。
「ああ、これなら、私めが飲ませて差し上げることもできますなぁ」
 ぽん、と店長が両手を叩く。余計なことを、といつもなら叫んでいただろうが、レラプスは今、カップの中のハーブティーに釘付けだ。
 ひゃっほー、あかぁーい。
 すすす、と店長がカウンターを出て、レラプスの傍らに立つ。天使のような笑顔で。
 反射的に、イスごと逃げ出そうとしたレラプスだったが、ぴくりとも動かすことができず、愕然とする。なんと、イルジィンが足でイスを押さえつけているではないか。君達のコンビネーションは、一体どこからくるのか。
「これ、ハーブティーなのにハーブの匂いがしない! 香辛料だよ! その匂いしかしないよ! 赤いし! ハーブなのに、血のように赤いし!!」
「「『気のせい』だ」です」
 ハモりやがった。
 店長は笑顔だ。イルジィンは無表情だ。
 レラプスは、悟った。
 これは、どんなことがあっても、飲まされる。口を開けなかったら、鼻から入る。鼻がなくても、耳から入る。耳穴を塞いでも以下略。こんなことなら、鼻から飲む練習をしておけばよかった。後悔しても遅い。無情にも時間は流れ、二人は行動に移すのだ。
「……店長!  それ以上、何を入れてるの! 湖沼こしょうか! この匂いは湖沼だよね!? そして、今更だけど、それは、ハーブティーに入れるものじゃないよね?! こら、そこ、イルー!! 更に、何入れてるんだー!!」
「甘くしようかと思ってな、砂糖と――」
「意味ないよ! 入れるな!! 何も入れるな!!」
 イルジィンは砂糖で飽和した液体の中に、さらさらと粉を入れる。
 その粉は少量溶け、カップの底に沈んだ。
「――媚薬びやくを」
「いらんことすんじゃねぇぇぇぇ!!」
 やばい。媚薬はやばい。確かに甘くなるだろうが色々ヤバイ。このままでは未成年にはお見せできません二十禁になってしまう。
 どうしてこうなるんだか、レラプスは胸中で毒づいた。半分以上答えは出ている。この状況から脱出する手段も。ただ、その答えが気に入らないだけだ。
 店長がカップを手に取った。くん、と匂いを嗅ぐと、うぅん、スパイシー括弧開始はぁと括弧閉、という感想しか出てこない。飲んだら死にはしないが、数日苦しむこと請け合いだ。
 意地とハーブティもどき一気飲みを天秤にかけたレラプスの脳が、高速で結果を弾きだす。
「だぁぁぁ、わかった! 許可するから! アルビノの少女あのこはここで面倒みよう! 実は、僕もそうしたいと思ってたんだ! ほら、理由も気になるし! 正体も気になるしね! ね!! だから、止めろ! にこやかな顔で近づいてくるな、店長! そんなの飲ませるなぁぁぁぁぁ!!」
 レラプスは脅しに屈した。
 弱いぜ、主人公。