レラプスは、追われていた少女を助けた。追手である”ニュオプレドデイ”二人組みのうち一人を顔の形が不細工に変るほどちょっとタコ蹴りにして。危険、でもなかったように思う。相手が油断していたからだ。はっきり言って、スプーンでハエを仕留めるより楽勝。付け加えておくが、このあとスプーンは必ず消毒。
 それでも、追われていたのが”み”えた少女じゃなかったら、少女を追っていたのが”ニュオプレドデイ”でなかったら、助けたりはしなかった。
 助けたのは、見返りが欲しいから。
 決して、善意からじゃない。
 なのに、
「折角、助けてもらって悪いんですけどぉ」
 聴こえる、聴こえるぞ、少女の声が。
 嫌味ったらしく長い髪をかき上げ、細めた瞳はせせら笑っている。
「私って喋れないんですー。なので、持ってる情報も渡せないの。勝手に助けてくれてありがとー。まぁ、骨折り損のくたびれ儲けって感じで、ざぁーんねんだけど、ゆ・る・し・て」
 ひくり、とレラプスの口許が痙攣した。こめかみには不自然な深い皺と、とくとくと脈動する青白い血管が浮き出ている。
 この、餓鬼。
 レラプスは歯を噛み締め、歯の隙間からスースーと大きく息を吸い込み、一泊置いて気力を溜め込んだ。垂れ下がった前髪を振り乱しながら、がばと勢い良く顔を上げ遠吠えの如く吼える。
「例え、正義の味方が許しても、僕は許さん!! 跪いて許しを請うまで、脛毛を抜き続けてやるー!! 後悔するがいい、あっはっはっはっ!」
 脛毛を何本も一気に抜くと、かなり痛いのだ。
 時には涙がでちゃうほど。
「疑いようもない悪役の台詞を吐きながら目覚めるのは、止めたほうがいいと思うぞ」
 イルジィンの突っ込みが入る。レラプスは、何を言うんだ、とばかりに、大仰に溜息をついてイルジィンに首をイルジィンに向けた。
「失礼だな。ちゃんと考えてあるんだぞ。生爪を剥がす拷問もあるし。それよりも1ランク下の脛毛を抜くことにより、じわじわと体がつるつるになる恐怖と罪を認識させて……ところで、髪の毛と脇毛と脛毛ってどれが一番、痛いんだろうね?」
「俺にそのような毛についての知識はない」
「どんな毛の知識ならあるんですか」
「訊くな」
 イルジィンは追求を逃れるかのように、露骨に顔を逸らす。
 レラプスは何故目を逸らすのかわからない、と言ったようにきょとんとしていた。目を逸らされる訳を懸命に考える。やがて、思いついた事柄を、恐る恐る口にした。レラプスの表情は悪い事をして怒られ、懸命に謝ろうとしている子供の顔と同じだった。
「あえて、一番大切な部分の毛は除外してみたんだけど……あれもやっぱり入れたほうがいいのか…?」
「毛の話から離れて現実に帰ってきてくれ。頼むから」
 イルジィンは、いつになく真剣だ。
 レラプスはやや不服そうに、口を尖らせながら言った。
「しょうがないなぁ。じゃあ、毛の話は一時置いておいて……って、あれ?」
 レラプスは、漸く気がつく。
 いつもより、自分の目線が低かった。椅子に座らせられているのだ。首を捻ると痛みが走る。カウンターを右に、縁をなぞるように座っている。背凭れが、ギィ、と軋んだ。嫌味を言った少女の姿もなく、フローリングの室内に、木造のテーブルが並ぶ、酒場の風景。少女が寝ていた宿屋の一階だ。
 あれは夢だったのか。そういえば、喋れないはずの少女が嫌味を言えるはずがない。我ながら、馬鹿な夢を見たものである。夢でも、現実でも、気に食わないことに変りないが。
「あのさ、自分が夢を見ていた、ってことは理解できたんだけど」
 夢よりも気になることが、一つ、二つ、いや、三つか四つか五つぐらいまである。
 イルジィンと話してから、何時の間に意識が途切れたのか、イルジィンの顔やらサングラスやら何時の間に元に戻ってるのか、そのサングラスは瞬時自動再生するのかも気になるが、それよりも。
「何で、僕は…こんな風に縛られてるんだー!?」
 レラプスは椅子に座った状態で縛られていた。しかも、これは尋常な縛られ方ではない。体中をぐるぐると椅子ごと巻かれているのである。縄により椅子と一体化したレラプス。体と椅子の隙間に、これでもか、と丁寧に丁寧に丁寧に執拗に縄が詰め込まれているので、体どころか指すら動かなかった。唯一、自由に動くのは首だけ。
恐らく犯人であろうと思われるイルジィンは、眉一つ動かさずに言った。
「あの娘の部屋へ、お前が殴り込もうとしたからだろう。あの状態で刺激するのは良策と言えん」
 下手をすれば殺していたかもしれんからな、というイルジィンの呟きがレラプスに届く。意図的に小さくした低い声だった。哀れみも、呆れもなかったが、その声は確実に小さく低くなっていた。
 レラプスに、否定はできなかった。すぐさまイルジィンは、通常の声音に戻る。
「故に背後から殴り、気絶させて縛った」
「ああ、成る程、通りでイルに背を向けたところからすっぽり記憶が飛んでるんだ。……じゃなくってー」
 止めてくれたことは感謝しよう。二日経ったはずなのに後頭部がズッキンズッキン痛むが、殴ったことも責めはしない。これぐらいしなければ止まらなかっただろう。頭が冷えた今ならわかる。あのまま乗り込み、理不尽な理由で少女を問い詰めていただろう。最終的には―――どうしていたかわからない。しかし、今回の問題はそこではない。感謝を差し引いても、あまる問題だ。
 レラプスは縄の下で、ありとあらゆる筋肉の運動を試し、その全てに裏切られながらも苦闘していた。何故、足の指先まで縛る必要があるのか。
「どうしてこんな風に巻くんだよ?! 動けなくするだけでいいでだろ?! これじゃ芋虫歩きもできない! ミノムシ人型イスだぞ?!」
 命名:ミノムシ人型イス。自分で自分にこんな命名をするというのは空しい。悲しい。
 椅子からにょっきり生えたレラプスの首をイルジィンは見下ろす。心なしか胸を張っているようだった。その一言を口にするイルジィンは自信に満ち溢れていた。
「在り来たりは敵だ」
「満足げに言うなよ!! 縛りっていうか、拘束だろこれ! よくよく見たら、カウンターに鞭とロウソクが準備されてるし! どんなプレイをする気……あ! あれは店長特製マーク!」
 レラプスの目に留まるのは、鞭とロウソクに付いている店長お手製印。店長が自分で作った作品に刻む、美人で繊細でちょっぴりエッチな女神のマークである。その女神が、にやり、と笑んだ気がした。
「これは……店長の趣味か? 店長の趣味なんだな?! とぅえんちょぉおぉぉぉ!!」
 痺れた手首が痛いのも、寝違えた首が痛いのも、腹が食い込んでるのも、足首が取れそうなのも、筋肉が無理をしてぶちぶち音を立ててそうなのも、全ての元凶は店長か。おのれ、店長、どうしてくれよう。
「私が、どうか致しましたかな」
 声だけで、にこやかに笑っているとわかるという人物も少ないだろう。柔らかな口ぶりは人々の心を優しく穏やかにしてくれるに違いない。
 その声が、息が吹きかかるほど耳元で聞こえなければという前提の元に。
 生物の息は、生暖かかった。
「ひぎぃあぁぁぁぁぁぁ!!」
 レラプスは悲鳴をあげ、ミノムシ人型イスがなんのその、体を揺り動かす反動のみでガコガコと、左右交互に椅子の足を踏み出し、逃げ出した。それは、常に前傾姿勢。椅子の左足が床に付いたら、すぐさま体を縛り付けられた背凭れごと捻り、右足を出す。
 リズムとバランスを崩せば、

 ぐしゃぁ

 こうなる。レラプスは、顔面から床とご対面した。皆が土足で踏む磨きぬかれた床と熱烈キッス。物凄く痛かった。
 この一部始終を、まったく助ける様子も無く見ていたイルジィンが、感慨深げに言った。
「あの状態で走るとは……俺は、久しぶりにお前が人間外だと実感したぞ」
「実感してないで起こせよ」
 うつぶせに倒れた状態から顔を横にずらし、レラプスは更に低くなった小人の視線からイルジィンを見上げた。
「その格好は面白い。しばらく、その格好をしていてくれ」
「ああ……この世界においての僕の存在意義を問いたい」
 ミノムシ人型イスの姿で、床とディープな関係を築くのが、僕の存在意義ですか。
 ちらり、と店長を見る。店長は笑顔で、レラプスが元居た場所に立っていた。この笑顔を見た瞬間に、店長が起こしてくれる、という淡い期待を捨てた。実に、儚い期待だった。
「嗚呼、レラプス殿。無事に目が覚めたようですな」
「主に、目覚めた後のほうが、無事じゃないよね」
 このレラプスの発言は、軽やかにスルーされるのだ。
 普通の椅子にゆったりと腰かけながら、イルジィンが呟いた。
「二日も目を覚まさず、そろそろ死んだかと思っていた」
 僕、寝すぎ。
「折角、縛って待機していたのですがなぁ」
 店長、待ちすぎ。
 ぎりぎりと歯を食いしばって空しさに耐えながら、レラプスは言う。
「ふ……二日、ってことは、あの餓鬼んちょの方はどうなった?」
 物事には順序というものがある。店長の気の長い待機っぷりや、イルジィンの二日も意識不明にさせるほど殴った手加減知らずは後で仕返しすることとして、レラプスは尋ねた。早急に把握しなければならないことだった。
「大分回復してきましたな。傷の手当ても終わりました」
「追われてる理由とか、話し……とと、教えてくれた?」
 立っている店長へ、レラプスは床板と唇の間から追求する。
 喋るたびに、顎が板に当たって痛いんだが。
「身に覚えがないらしいですぞ。気がついたら追われていた、と」
 結局起こしてもらえないまま、二日間の報告を聞く。レラプスには、少女が嘘を吐いているのか本当に身に覚えがないのか、わからなかった。
 レラプスは、眼球のみを動かしてイルジィンへ視線を投げる。視線だけだ。今、首を動かすと、椅子と共に横に倒れて首の骨がピンチになる。凄いぞ、首の骨。体重と椅子の重さにも負けない。レラプスの視線の意図を汲み取ったらしく、イルジィンは言った。
「嘘は吐いていないな。本当に身に覚えが無いか、記憶を封じられているか、どちらかだ」
 イルジィンが言うのならば、そうなのだろう。結局、二日間かけても何故”ニュオプレドデイ”に追われるのかわからないらしい。
 あの少女は”ニュオプレドデイ”の何なのか。マルコビッチ二号は、あの少女を『連れ戻す』と言っていた。しかし、あの追い方はどうだっただろう。確保というよりも狩りに近かった。容赦無い、足の一本二本は惜しまない、場合によっては命すら厭わないという追い方だ。その中に遊びではない必死さがあった。
「どうなさるおつもりですか?」
 店長がカウンターを掃除する手を止る。春の新芽のような、柔らかな色が向けられる。
 珍しい、と思った。実際に珍しかった。店長が他人を気にかけることが。他人の処遇を気にすることが。気がかりでもあるのか、たかだか少女一人に。情でも移ったのか、たかだか子供一人に。

 今更。

 そう思うと、酷く冷たい水が心の奥底で波を立てた。
「捨てる」
 レラプスは、床板に頬を擦りつけて、床板以上に冷たい声を、笑みもしない唇で言ってのけた。