噂をすれば何とやら。
 何がきっかけだったのか、店長の情報を遮るように、少女は目覚めつつあった。本当は狸寝入りでもしていたのではないだろうか、と疑ってしまうほどタイミングよく。
 この心は顔の筋肉へ露骨に伝わっていたらしく、レラプスは店長から落ち着いて、とジェスチャーを頂いてしまう。
 そんな、子供を怯えさせるような顔つきをしたつもりは、なかったのだけれども。
 落ち着け、落ち着け、怯えさせて話が聞けなくなっては意味がない。レラプスは両手を上げたり下げたりしながら、深呼吸をする。
 ベッドで眠る少女。アルビノの色彩。追われていた少女。不穏な動きをしたために気絶させた少女。まだ、その正体もわからない。
 ただでさえ餓鬼はメンドーなのだ。脚色するし、話を肥大させるし、正確性が無いし、直ぐ泣くし、妙に捻くれてたりするし。
 怯えさせるな。笑顔だ。イッツアスマイルフォーエバー。肝に銘じろ。人間関係を構築する上で、第一印象は大切。例え、どんな奴が相手でも、尻の穴から力み出すように、捻り出すように、最高極上君の瞳に乾杯夜景100%あら嫌だ私酔っちゃったかも選手権金メダル級の笑顔おぉぉぉぉ。
「何故、あいつは便所に篭った時のような顔をしているんだろうな……」
「覗いた事があるのですか、イルジィン殿……」
 背後でイルジィンと店長のやりとりが聞こえてきたが、レラプスはそれどころではない。
 少女の瞼の痙攣が、浅いまどろみから浮上する事を告げている。つん、と上を向いた長い睫が震え、赤い虹彩の色が覗いた。
 レラプスは素早く息を整えて、気合を入れ、覚悟を決める。
 いざ尋常に、勝負!
「やぁ、目が覚めた?」
 レラプスはベッドの端に腰掛け、少女へ笑いかけた。
「背後に、花弁がドドメ色に紫斑点で茎を棘に埋め尽くされた巨大なバラの幻影を背負ってな」
「花もどきの化け物を引き連れた魔王の嘲笑ですなぁ」
 イルジィンの解説と、店長のコメント。
 更に駄目押しするかのようにイルジィンは続ける。
「『得点。 …0.0…0.0…0.1…0.0…0.0…惜しい! パーフェクト0.0達成にはなりませんでした! しかし、勝負は見事なほどの敗北です! レラプス選手、完膚なまでに叩きのめされました!』」
「真顔の棒読みで余計な描写は入れんでいいから! 器用なことするなよ! くそぅ、僕の心を読むなんて、エスパーかお前は! 僕だって、僕だって頑張ったのに…」
 ショックのあまりにレラプスは崩れ落ち、悔しさに床を平手で叩いた。木の張られた床板を平手で歪に変形させていくレラプスの肩に、そっとイルジィンの手が置かれる。
 イルジィンの声は囁くように、
「俺は、笑顔により発生したドドメ色紫斑点バラオーラのため、窓の外で次々と倒れていく人々をどうすべきか悩んでいるのだが……」
「捨てて置けよ」
 慰めてはくれないようだ。
「私でも、酸素マスクが無ければ息苦しくなってしまいますからなぁ……シュコゥーシュコゥーシュコー…」
 説明しよう!
 これは酸素ボンベが、店長の身に着けたマスクへ酸素を送り出している音なのだ。
 レラプスの笑顔で召喚されてしまった、バケモノ的バラオーラが毒素を部屋に充満させ、店長ですら何処からか持ってきた酸素ボンベを装着しないと意識を保っていられないのである!
 アルビノの少女は毒気に当てられて、怯える間もなく、すぐさま気絶してしまったのだ。良い子は生命の危機を感じたら、真っ先にその場所から脱出しようね。
 頭の中で、爽やかな笑顔のお兄さんの解説が思い浮かんでしまうレラプス。
 店長とその爽やかお兄さんで、空中微塵斬りを試してみたい衝動を抑えながら、レラプスは扉へ一目散に駆け出した。
「お前ら何か嫌いだー! バラとお友達になって苦しんでしまえー!!」
 既に、イルジィンが半ば取り憑かれる形でバラとお友達になり、顔をドドメ色と紫の斑点に変化させて倒れているが前言撤回はしない。レラプスはその倒れて悶え苦しんでいる障害物の顔を踏み潰し、扉を潜り抜けると力一杯閉めた。

 バタンゴシャ、と扉のドアノブが外れる音を耳にレラプスは一息つき、一度だけ鋭く扉を睨んだ。そうすることが、腹立たしい気持ちを落ち着ける最良の策だとでもいうように。偶然の事故で外してしまったドアノブを、四角く続く廊下に投げ捨てて、レラプスは踵を返し、早足で階段を下り出す。この店は二階が宿屋、下は酒場となっていた。
 やはり餓鬼は嫌いだ。
 八つ当たり気味にレラプスは思う。知らず知らずの内に、階段を踏む音が大きくなる。自分を見てもらおうと脚色して、話を肥大させるし、信じたら盲目なまでに信じ込んで、正確な判断が出来なくなる。自分の思い通りにならないと直ぐ泣くし、見栄っ張りで、褒められたがり、妙に捻くれた態度をとって此方を困らせる。優しくしたら優しくしたで、面倒なまでに懐く。

 ――人を嫌いになるのはね、

 あまりにも唐突に、懐かしく優しい声が脳裏に響いて、はた、とレラプスは足を止めた。 そこは階段の中腹。足元には、まだ、下りの階段が続いている。

 ――自分の中の嫌いな部分を、その人が持っていて、曝け出しているせいよ。自分は我慢しているのに、目にするのも嫌な部分を、どうしてその人は出すのだろう、とね…――

 格子のような手摺りの影が規則正しく段差にあわせて折り曲がっている。

 ――だから、

 そう、だから、とその言葉は続いた。
 こみ上げる感情を押し止めるようにレラプスはぎゅっと目を瞑り、拳を強く握る。爪が食い込むまでに握り締めた拳は、細かく震えていた。

 間。

「こんなことで、立ち止まってるわけにもいかない、か」
 そうだ、立ち止まってるわけにはいかない。少しでも可能性があるのなら、多少の犠牲を払ってでも進むべきだ。苦手だからと言って逃げている場合じゃない。
 レラプスは意を決し、くるりと再び踵を返した。
「どうぁっ!?」
 そして、その歩みは最初の一歩で、顔面が背後に立っていた人物の胸へ盛大に突っ込んだことによって停止する。そのまま、数秒固まってしまった。誰か、はすぐわかる。この感触はイルジィンである。誰か泊めているという話は聞いていないし、店長ならぼふっというよりは、かさっというか、ごつっというか、寧ろぼきっという感触が訪れるであろうと思われる。
 何でこの男は、胸の筋肉がこんなについてるんだろう。
「俺の胸を弄るとは…逆セクハラか?」
「弄ってない! 弄ってないよ! 誰も聞いていないとはいえ、誤解される言い方は止めろよ!!」
「誰もいない事をいいことに、俺の体を隅々まで把握する気か…」
「止めろってのに! 僕は、イルの筋肉は無駄がなくていいな、って……うあぁぁぁ、僕は何を口走ってるんだー!!」
 レラプスは頭を抱え、左右上下、こんな事を考えてしまった頭に、罰を与えるように振り回しながら、イルジィンから素早く離れた。足は階段から落ちるギリギリ手前だ。逃げ場は、無い。
 この男は侮れん。油断できない。息を切らしながら、漸くレラプスはイルジィンを正面に見る。正面とは言っても、頭一つ分以上高く、更に階段一つ上に居るため見上げる形になるのだが。
 イルジィンの顔は、
「……随分、アーティスティックかつグロテスクな顔になってるね」
 凄いことになっていた。
 肌がドドメ色で紫斑点に変色しているのに加え、顔の形が多少崩れており、頬に靴の形の蚯蚓腫れ、更にサングラスに皹が入っていたりする。夜に下から光を当てたなら間違いなく絶叫されるイルジィンの顔を、レラプスは冷や汗をかきながら見ていた。
 蚯蚓腫れと紫斑点で、元の色が見る影もないほど素晴らしく装飾されてしまった、イルジィンの唇が動く。
「誰のせいだ」
「全面的に僕のせいです」
「そうだ、疑いようも無く100%お前のせいだな」
 反論したいところだが、凄いことになっている顔を見せられると、反省が先立って言い返せない。
「それはいい。あの娘のことだが」
 イルジィンは鏡を見ていないから、それはいいと片付けられるのだろう。それだけインパクトが強いのだが、それを言って、それはいいが撤回されても困るので、話題を逸らすためにもレラプスは尋ねた。
「目が覚めた?」
 目覚めて、すぐに気絶させてしまった少女。笑顔を頑張った結果とはいえ、ちょっと悪い事をしてしまった。笑顔がトラウマになってないといいが。
「ああ。大体の事情もわかった」
「え、こんな短時間に?!」
 言葉巧み、子供を懐かせるのが大得意、大人の仮面を被った店長だが、こんな短時間にあんなに怯えの酷い少女から事情まで聞き出せるとは。流石店長、自分とは違うなぁ、と驚嘆していたレラプスを、胡乱げにイルジィンはレラプスを見下ろす。
「……短時間? 充分、手間取ったはずだが」
「え、……あ」
 失態をレラプスは悟る。今まで何を考えていたか。昔を思い返すと時の経過を忘れてしまう。あの言葉を思い出し今の結論に至るまで、かなりの時間が経っていたようだ。少女が目覚め事情を聞き出すほどの時間が。
 あの、間、にそんな罠が隠されていたとは!
「まぁ、それはいいよ。ご苦労さん、って店長に言っておく。それよりも、あの子の事情がどうした?」
 冷静を装い、レラプスはイルジィンを促した。
 こんなことを考えていたとは、知られたくもなかった。知られたとしても、どうすることもできないことだろう。余計な心配や憐れみを受けるよりも、何も知られないほうがいい。食い込んだ爪の生々しい跡を残す掌をポケットに突っ込み、レラプスはイルジィンの言葉を待つ。疑わしげに、イルジィンは暫し黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
 ある程度覚悟していたはずだ。そりゃあ、追われるからには大層な事情があるだろう。盗みを働いたとか、監禁場所から逃げてきたとか、あの二人の股間を蹴ったとか。ある程度覚悟をしていたはすだ。だが、
「あの娘は喋れない」
 これは予想以上に大ショックだ。