レラプスは不満だった。
 とある宿の一室。
 クリーム色の壁に嵌めこまれた窓には、緑のカーテンがぴったり閉められている。恐らく、窓の向うでは、晴れた青空の上で、日が高く上っていることだろう。昼であるのに薄暗い部屋には、壁に吊るされたランプが、明りを灯していた。部屋に敷き詰められた絨毯は、長い年月を表すように、ピンクの色が抜け落ちていた。
 別に、そこが不満の理由ではない。
 空の色は、雨でなければどうでもいいし、空が見たいとも思わない。部屋の温度は、熱くもなく、寒くもなく、常に困ることが無かった。絨毯は色あせているが、部屋の隅にもベッドの下にも、掃除が行き届いていた。逆にあせているからこそ、年代を感じさせ、落ち着いた雰囲気を与えてくれる。薄暗い部屋も、今の状況を考えれば当然の処置だと納得できる。嫌だったら、灯りを点ければいいだけの話。
 住むとしたらかなり好みに入る部類の宿であり、部屋だった。
「どー考えても納得できない」
「だが事実だ」
 レラプスの呟きに、一言で返すのはイルジィン。
 この身も蓋もない言い方が、余計不満を募らせるのだが。
 中央に据えられたベッドを挟むように、レラプスとイルジィンは座っていた。レラプスは背凭れに全体重をかけてよりかかり、イルジィンは腕と足を組んでどこともつかぬ方向を眺めている。イルジィンが見ている先をレラプスは知らない。彼が顔を向けている方向は壁があるばかりだ。
「おかしいだろ? 残滓があったから捕獲します。捕獲の時、妙な動きをしました。その時”魔女”を”み”ました。気絶させたら、残滓どころか”魔女”も消えましただぁ?!」
 ベッド上、白いシーツに身を埋めて眠る少女。追われていた、アルビノの少女である。
 これがレラプスの不満の種。
「わっけわかんねぇ! あってたまるかそんなことー!」
 レラプスは、体をスライドさせ、ベッドの隅へ屈服した。
 シーツが空気を孕んでしぼむ。少女の腕も揺れたが、気にしない。
 このお姫様は、朝この部屋に運び込まれてから、昼、つまり今この時になるまで一度も目を覚ましていない。それどころか、瞼を痙攣させもしないのだ。死んでいるんじゃないんだろうか、と疑ったりもしたが、規則的に呼吸をしていた。
 呪いをかけられた眠り姫。眠る少女には、この表現がよく似合う。
 扇状に広がる長い白髪と透き通るように白い肌。神々しささえ感じた。
 アルビノは色素がないか、または極端に少ない。皮膚や頭髪、体毛が白く見え、眼が赤く見える。色素の関係で日の光に弱いと聞いた。だから、今はカーテンを閉じて、日の光を部屋に入れないようにしているのだ。
「目覚めを知らぬ眠り姫は王子のキスで目を覚ます、ってか。イル、キスでもしてみたらどうだい?」
 レラプスはイルジィンをイルと呼ぶ。イルジィンと呼ぶのは長くて面倒だった。
 レラプスはシーツに顔を埋めながら、やけっぱちにぶつくさと呟きを零していた。視界を覆う白いシーツのせいでイルジィンが何をしているのか、どんな顔をしているのかは見えない。
「御伽噺なんだけどさぁ、あれもロマンチックな話だよね。最後に必ずめでたしめでたし…」
 ぎし、と椅子が軋む音を、レラプスは聞いた。
 ふと顔をあげれば、接近している、イルジィンと少女の顔。その差、約10cm。

 めごっ。

 叫ぶよりも早く、レラプスは動いていた。
 イルジィンを、思いっきり殴り飛ばしたのである。
「ぬぅあにしとんじゃぁぁぁぁ!」
 殴ってから、漸く叫び声が喉から迸った。レラプスは何よりも先に手が出るタイプだ。
 正面から顔面に拳をくらったイルジィンが弧を描きながら仰け反って、ベッドの横に崩れ落ちた。
「…………早かったな、0.3秒でナックルを装着して殴るとは…」
 微妙に歪んだ頬を抑えて、イルジィンが立ち上がる。
 レラプスの右手には輝く鉄のナックル。レラプスは肩で息をしながら、次の攻撃の準備のために椅子を両手で持つ。危険を感じたのか、イルジィンはさり気無くレラプスと安全な距離を置いた。
「待て、それで殴られては、流石の俺でも数日再起不能になるぞ」
「なるがいい、なるがいい! 眠って抵抗できない乙女の唇を奪おうとするなんて、不届き千万! 数日の再起不能で罪を償え!」
「王子が再起不能になったという話は聞かないが……キスをしてみろ、と言っただろう」
「冗談だとわかれよ! 考えてもみろ! 眠っている間にキスされて、その相手が素敵な王子様像から程遠い男でどうするんだ! それこそ一生のトラウマにな」
 突如、二人の間を物凄い勢いで何かが横切っていった。迸る風圧でレラプスとイルジィンの髪を真横に靡く。
 トラウマになるだろ、と発言しようとしたレラプスの口が、開いたまま停止している。嫌な予感をひしひしと感じながら、妙にぎこちない動きで、レラプスは通り抜けていった何かの方角へと顔を向ける。
 壁に、なたが刺さっていた。巻き割りに使われる道具である。否、今は凶器。細かい壁の破片が、ぱらぱらと降り注ぐ。
「なたぁぁぁぁぁぁ?!」
 下手すれば『その首ぶっ千切るぞ★』と黒い星を飛ばしていそうな鉈が、見間違いでも何でもなく、壁に刃を埋め込んでいた。
 崩れた壁の間から、ちょっと空が見えたりする。
 ああ、今日の空も素晴らしいほど青いぜ。
「鉈だな。薪などを割り裂くのに用いる、短く、刃が厚く、幅の広い刃物だ。握りやすいよう使用者に合わせて削られたグリップ。手入れも乱れが無い」
「説明しなくていいから!」
 鉈の説明をされている場合でもない。
「しかしだな、あの距離から壁をぶち破る威力を保つというのは難しいものだぞ。加えて、完全には崩さずに突き立たせる……流石だな、ギニー」
 顔面にナックルの跡を残したイルジィンが、部屋の入り口へ言葉を投げた。色々言いたいことはあるが、せめて顔を戻す努力をして欲しい。
「いやいや、お褒め頂けるとは光栄ですなぁ」
 部屋と廊下を繋ぐ扉の前に、初老の男が立っていた。飾り気のない黒のスーツで、中肉中背の身を包む。揃えられた短い髪に色は無く、白髪または銀髪と見ていい。柔和な瞳は、緑。
 格好は執事のようだが、この宿の店主である。愛称はギニー。本名はイニシャズ=ジ・セレイションだが、イルジィンは愛称を、レラプスは店長と呼んでいる。
 実はこの店長、右手にお絞りとグラスを三つ置いた盆を乗せ、左手は水差しとティーポットを無理矢理持っていた。
 つまり、両腕が塞がっているのだ。立っている場所から見て、店長が鉈を投げたことに間違いはない。扉をどうやって開けたか、は、ともかくとして。
 どうやって投げたんですか。
 寧ろ、どっから出した。
「飲み物でも、と思いましてな。お声を掛けましたが気が付かぬ様子でしたので……少々乱暴な登場の仕方になってしまいましたの」
 壁に穴を開けることって、少々の乱暴に含まれるんだ。
 レラプスの無言の突っ込みを店主は笑顔で黙殺し、ベッドへ近づいてくる。窮屈そうに水差しとティーポットが、擦れ合って揺れている。
「おやおや、壁に穴が開いてしまいましたな。早急に直しましょう」
「ああ、光は毒らしいからな」
 何事も無かったかのような店長とイルジィンのやり取り。レラプスは遠い目をして二人を眺めていた。
 それに気がついた店長が、子供を宥める様子でレラプスに言う。
「どうかしましたかな、レラプス殿。さぁさ、お水をお持ち致しました。椅子にお座り下され」
「ああ、うん、僕はもう何も言わないよ…もしかしたら、首が飛んでたんじゃないかな、とか、壁に穴を開けるほどの腕力はその枯れ枝のような腕のどこから来たのかな、とか……どうせ、この壁も数分もすれば直ってるんだろうし……」
 店長に促されるまま、ナックルを仕舞って椅子に座り直す。
 相変わらず鉈は壁に刺さって事実をレラプスへ突きつけていたが、もう考えないことにした。ここで、これぐらいのことを気にしていては、神経を磨耗するばかりである。
 ベッドの反対側では、同じくイルジィンが椅子に座りなおしていた。
 店長はレラプスにはグラスを渡す。
「お嬢さんはお目覚めになられましたかな」
「まだ。起きないと話になんないね。そっちは?」
 店長は、レラプスのグラスへ水を注ぎ、イルジィンのカップへ紅茶を注ぐという作業を、馴れた様子でこなしていた。
「此方は有力な情報が手に入りましたよ。なんでも…」
「待て」
 店長とレラプスの会話にイルジィンが割り込み停止を促す。眼差しの集中する中、イルジィンは顎でベッドの上を指した。
「お目覚めだ」
 少女が目覚める。