殺す相手の眼を見てはいけない。
其の時、眼は口以上に語る。


 レラプスは皺の寄った眉間を親指と人差し指で摘み、腰にもう片方の手を置いて、やれやれと首を振った。何か言うべきだと思ったが、溜息ばかりがついて出る。ようやく発した言葉は、呆れの感情以外含んでいなかった。
「少しは、さぁ……抵抗とかしておこうよ。何処のガキどもがやったんだか知らないけど」
 裏口が連なる裏通り。その一つの扉へ続く石段に、イルジィンが腰を下ろしていた。
 黒のコートにサングラス。髪も黒とあっては黒以外の場所は肌だけ、のはずだった。ついさっきまでは、その通りだった。が、しかし、今は違う。
「何、妖精の国のような頭のメルヘン。そして触覚」
 イルジィンの黒髪が色とりどりのリボンで結ばれていたのである。ピンク、白、黄、赤、青、緑などなどなど、目が痛くなるような配色でイルジィンの頭は現在リボンの楽園だ。小さな束にされて結われた黒髪が三つ編みにされているもののうち、二本だけが触覚のように飛び出ている。少年の年齢などとうに過ぎた男の頭上で、重力に逆らう二本の三つ編み。
 顔に似合わぬ頭のメルヘン。百歩譲っても気持ち悪い。イルジィンの真顔がその奇妙さを更に際立たせている。
 頭に合わせるか顔に合わせるかしろよ、とレラプスは胸中で突っ込んだ。
 イルジィンは頭のリボンや三つ編みを解きながら、レラプスの胸中を見透かしたように言った。
「ここで大人しく待っていろ、と言ったのはお前だろう」
「大人しく、っていうのは一切動くな、ってことじゃないんだからな。だいたい、抵抗しないからここに来る度に遊ばれるんだぞ」
 眉間の皺をほぐし、レラプスは軽くイルジィンを睨む。
 この辺りの子供達の間では、イルジィンにリボンを結ぶことが、肝試し的遊びになりつつあるらしい。
 サングラスを付けたまま、無表情で不動のイルジィン。魂抜けてるんじゃないかと思えるほどイルジィンは動かない。この間、三時間ほど観察し続けていたが、一度たりとも動かなかった。観察していて、何してるんだろうと空しくなったから三時間で止めたが、その後、夕飯に呼びに行った時も彼は同じ格好のままだった。本当、何してるんだろう。自分を含めて。
 余程のことにならない限り不動なイルジィン。未知で不可解で好奇心をうずかせる。肝試しの的になるのも納得できるといえば、納得できるが。
 イルジィンはするするとリボンを解いていく。
「これ以上何かするつもりもなかったようだからな。放っておいても害はない」
 イルジィンの掌から、帯になって伸びるカラフルなリボンの束。資源の無駄だよなぁ、とレラプスは思った。可愛いらしい女の子が自分を着飾るために使うならともかく、この黒ずくめの男の頭でひらひら揺れるために使われては、リボンも浮ばれないに違いない。
「解くの面倒じゃないか?」
「抵抗する方が面倒だ」
 レラプスの問いに、そっけないイルジィンの返答。
 子供は熱中するのも早いが飽きるのも早い。標的にされた回数が三回を越えるイルジィンにとっては、下手な抵抗をして目をつけられるよりも、飽きるのを待っているほうが楽なのだろう。
 レラプスは諦めたように溜息を落とす。
「そうか、まぁ、いいけど」
 結局はイルジィンの頭に慣れるか、子供達が飽きるのを待つしかないのだった。
 どちらが早いかいい勝負だ。
 レラプスが溜息を出し終え、その様子を言葉無く見守っていたイルジィンがリボンをあらかた解き終わり、残るは飛び出た三つ編みだけになった頃、二人の耳へ慌ただしい足音が届いた。
「ん? 何だろ?」
 この路地を使うのは怖いもの知らずの子供かゴミ捨て係の使用人だ。そのどちらも急いて走るものではない。訝しげにレラプスは振り返る。
 つられるようにイルジィンも騒がしい物音と声の方角へ視線を向けた。イルジィンの頭の上で、びよんびよんと三つ編みが揺れていることを、レラプスは気合の限りを尽くして無視した。
 表通りへの一本道。表通りからの光を阻むように揺れる人の影。レラプスは、その影の正体を見極めるように細く鋭く目を細める。
「ちっこいガキんちょ一人、そいつを追ってる大の大人が二人〜…さて、どうしよう?」
「……どちらも残滓を引き摺っているな」
 イルジィンの独り言にも似た言葉を聞き、レラプスの唇が弧を描いて笑みの形となる。
「フフン、重要参考人、ってわけか。りょーかい、りょーかい」
 レラプスは拳と掌を合わせ指を鳴らすと、瞬きが一度終る間も置かずに走り出していた。ゴミが散乱する道を、しなやかに迅速にその足は駆ける。
 ぼんやりとレラプスの瞳に映っていた影が次第に明確になる。追われている一つの小さな影。二倍は大きい二つの影がその背後に続く。
 温かみのある街の喧騒は遠かった。この路地に充満するのは、殺伐とした狩りの蠢き。
 追われているのは、幼い少女だった。
 軽くウェーブのかかった長い白髪を振り乱し、顔を苦痛と恐怖に歪めて一心不乱に逃げていた。アルビノの少女。少女が纏うのは白い布。一枚の大きな布を体に巻きつけ、服の代わりとしていた。靡く白髪と白い布の波。
 自分の姿を見て身を竦めて立ち止まる少女。浮かぶ恐怖の色を見て、レラプスは苦笑を零した。
 確かに、少女にとっては追手もレラプスも変わりない。恐らく今後も。
 怯えている少女を擦り抜け、少女を背に庇うように、レラプスは追っ手の前へ立ちはだかった。追手の一人が怪訝に眉を顰める。
「んだぁ?」
 追手は、二人。
 一人は、目付きの悪い赤髪の男。赤髪に赤眼。腰に吊るした細身の剣と、濃い緑を主とした服は、男の体にぴったりと馴染んでいる。先程のガラの悪い声はこの男からだ。目付きと同じく、口調もよろしくないらしい。
 もう一人は、蒼の法衣に身を包んだ優男。蜂蜜色の細い髪を流し、垂れ気味の瞳は穏やかな茶色だ。法衣の襟や袖には、銀糸の刺繍。赤髪の男のように睨むことはしていないが、その表情は困惑を表していた。
 一見、共通点が無いように見える二人組みだが、赤髪の男は肩に、優男は胸に、施されている銀の刺繍だけは同じものだった。
 見覚えのある文様。満月と太陽を、蛇で十字に組み込ませたそのレリーフ。
 レラプスは、大仰に肩を竦めてみせた。
「おやおやぁ、よく見たら”ニュオプレドデイ”の方々じゃないですか」
 月の神『ルト』と太陽の神『ロトオス』を崇める”ニュオプレドデイ”。
 夜は月の神『ルト』の慈愛を受け、昼は太陽の神『ロトオス』の眼差しに見守られる。崇め、祀ることでその恩恵を受け、災難から遠ざけられ、病気を癒やす。月の神『ルト』と太陽の神『ロトオス』の兄弟、姉妹、子や従者によって常に人は護られている。
 この国”ラーディア”の守護神とも言える神々の、代弁者にして守り手。護り手にして癒し手が”ニュオプレドデイ”だ。
 嫌なもんに会っちゃったなぁ、というのがレラプスの本音だ。敵に回してこれほど面倒なもんはない。
 象徴たる紋章を身に着けていることから、一般人でないことは伺える。第一、一般人は銀の糸で刺繍など出来ない。相当階位が上の者か、または金持ちか。
 金持ちがこんなところで少女を追いかけている、というのも笑える話だ。ロリコンだ、ロリコン。磨けば光る少女達を金に物を言わせて監禁、メイドの格好させて「ご主人様」とか呼ばせるんだ。
 目の前の二人に、そのリアルで生々しく、ところどころぼやけたイメージを、当人の許可がなく当てはめてレラプスは寒気がした。
 寒気を与えるとは許すまじ、この変態どもめ。
 胸中の声が聴こえたわけでもないだろうが、赤髪の男は歯を噛み鳴らし、泣く子が更に泣き喚きそうな目つきでレラプスを睨む。
「んだ、ガキィ……邪魔すんじゃねぇ」
「そんな言葉遣いでは、いけませんよ」
 喧嘩腰の赤髪を手で制し優男が一歩前に出る。赤髪の男は眉間に寄せた皺を深くし、軽く舌打ちをしながらも発言権を譲った。
 愁いを帯びた表情で、優男は静かに告げる。
「……その子は忌み子です。私たちに渡してください」
「やだ」
 約0.3秒。
「いや、しかし、ですね。連れ戻すように言われておりま」
「断る」
 言い終わる前に言ってみた。
「……あの人、酷いです」
「俺に言うんじゃねぇよ」
 呆然と言葉を交わす追手二人を横目に、レラプスは背後の少女を一瞥し、短剣の柄に手を添えた。
 短剣の柄は、何時も通りの感触をレラプスの手に与えてくれる。刃という名の武器の感触。武器という名の力の感触だ。
 少女は、荒い息を抑えるように胸に手を添え、ただただ事の成り行きを見守っていた。
 何が起こっているのかもわからないのだろう。逃げることも、既に忘れているのだろう。痣や切り傷で埋め尽くされた少女の肌、靴を履いていない素足からは、血が滲む。どんなことがあり、どんなことをやらされていたのか。そんなことは知らないし、どうでもいいが。
「君達は”ニュオプレドデイ”だからはどうでもいいんだけど、あの子は重要参考人。渡すわけにはいかないね。それに……」
 裏通りに、五人以外の人影はない。建物に挟まれ、殆ど日が差し込まない淀んだ空気へ、レラプスの声は冷ややかに浸透する。
「僕は”ニュオプレドデイ”大嫌いだからさ」
 大嫌い。
 そのたった一言に、殺意を込めた。
 自然と、殺意は込められた。
 事実、レラプスは憎いほどに嫌いだった。
 レラプスの殺意を汲み取ったのか、追手の反応は素早かった。赤髪の男は剣を引き抜き、優男は赤髪の進路を遮らないよう数歩飛び退く。僅かな間で状況を判断し、即座に戦闘の態勢が整えられる。
 流石”ニュオプレドデイ”、ただの追っ手ではないらしい。赤髪の持つ剣が向けられる、この状況の中であるというのに、感心してしまう。
 だから、余計に癪に障り、余計に面倒なのだ。ただの寄せ集めの組織なら、手間取らせることなどないのだろうに。
 身構える追手二人を正面に捕らえながら、レラプスは高々と叫んだ。