頬に当たる土の感触は柔らかく、暖かい。春だからだ。気だるさを覚えるような包みこむ温度を受けて、緑の芽が芽吹く季節。柵の挟んだ向こう側に、刈り入れ時を迎えた春小麦の群れが見える。真上に登った陽光を受けて、それらは黄金色に輝いた。
 ああ、昼なのだ、と剣士は気付く。頭にかかった霞は、ここが何処で何をしていたのかを思い出そうとしない。
 夢現の意識は、不意に耳を貫いた甲高い悲鳴によって覚醒させられる。
 今の声は誰か。思い当たるふしはないでもない。二言、三言、言葉を交わした覚えがある。取り決め事の時に。狩りの間は、決して裏切らないという取り決めの時に。
 そんなことはどうでもいい。狩りは終わらなかった。
 また一つ、悲鳴。
 その声は詰まるような水音を含んで振るえ、徐々に徐々に小さくなり、消えた。
 焦点を小麦畑から手元に合わせる。まず目に入ったのは握られた剣。そして、血溜まり。自分のものではない。剣士に傷はなかった。ただ、腹にめり込んだ拳の痺れは残っている。
 内臓が回るような痛みに呻きながら剣士は顔を上げた。
 居た。走り抜けた怖気に剣士は震える。
 それは背から蝙蝠のような羽を生やしていた。
 引き千切られて空気に晒された皮膚が、産毛を生やした羽の上で乾いて固まっていた。
 右腕は不自然なまでに長かった。左腕のざっと三倍はあった。
 その手にもいだばかりの人間の腕を持っていた。肌は死人のように青白かった。
 胴から伸びた足は四本だった。
 そして、人の足だった。
 顔も人だった。
 青に皮を被せた色だった。
 目は白目を向いているというのに、細い血管が浮き出て赤かった。
 胸から肋骨が飛び出ていた。
 甲殻類の足のようだった。
 脈打つ心臓が見えた。
 その心臓よりも赤い返り血で半身を染めていた。
 人とは呼べない人だった。
「化け物……」
 剣士は呟く。
 知っていた。化け物がいることなど彼らは知っていた。知っていたが故に、初めて見た時もさほど衝撃は受けなかった。あの異形には賞金がかけられていた。それを目当てに来ていた。日が昇り、他の傭兵と競いながら、誰の手にかかるとしても、日没には戻れると思っていた。それが、浅はかさからくる驕りだと知らずに。
 始まりは順調であったはずだ。剣は何度も肌を裂いた。異形は何度も血を流した。赤い血だった。人と同じように異形は赤い血を流し、苦悶の叫び声を上げた。
 だが、それだけだった。羽は骨にかかり、落ちることは無かった。臓物を狙った刃はあばらに阻まれた。骨に傷は付かなかった。ただ、鮮血だけが降り注いだ。
 剣士は頬を拭う。生暖かい異形の血がぬるりと肌の上を滑った。口に滑り込んだ生臭い鉄の味。
 異形は奇声を発しながら、小さな子供が地団太を踏むように揺れ動いた。その足の下にあるのは、人だろう。二時間ほど前までは、剣を振り笑って話していた人の肉塊。
 玩具のように人が潰れていく。ように、ではないのかもしれない。賞金がかけられているのは、このように――そう、自分のように玩具として遊ばれる人間を釣るための餌だったのではないだろうか。
 あの玩具に飽きたら、異形は次の玩具を探すだろう。次の、体が痺れて動けない剣士の元へと来るだろう。
 何て笑えない皮肉だ、と自嘲気味に口端を持ち上げた時、
「うあ、随分ハデにやってるなぁ」
 臨場感の欠片もない声が聞えた。
 剣士は顎を微かに持ち上げ、声の方角を見る。
「やぁ、兄さん。大丈夫?」
 金の眼で作られた人懐こい笑みが剣士を見下ろしている。短めにうなじで結われている淡い黒髪。剣士の顔の横には皮のブーツがあった。長年履いているのか、褪せた皮がよく馴染んでいた。
 何故、子供がいるのかわからない。いや、ここに来る人間の理由は、一つだけだが。
「あいつ目当てに、来たのか……? やめとけ、殺されるのが、オチだ。早く、逃げろ」
 声を絞り出す度に内臓がぎりぎりと痛んだ。霞んだ声ではあったが、届く音量だった。幸い、異形はあの場から動いていない。逃げるのならば、今の内だった。
 金の眼は不敵で、剣呑で、油断のならぬ笑みを見せた。
「失礼だな。僕は、兄さん達とは違って、専門のハンターなんだからね」
 そう言って、すらりと鞘から短剣を引き抜く。逆光に照らされた細い銀の色。
 ざり、と砂を踏む音が聞え、剣士はまた視線をずらす。若い男が立っていた。纏うのは黒のコート。黒い髪に、黒のサングラス。全身黒尽くめの男。
 男を振り返ったのか、金の眼は逆光に隠れ見えなくなった。
「色は?」
「灰だな」
 抑揚に乏しい男の声。
「そか。じゃあ、諦めるしかないよな」
 と、剣士にはわからぬ会話を交えた後、鞘から引き抜かれた白刃は異形に向き直る。男と並ぶと小さな背丈だった。到底、あの化け物に敵うものには思えなかった。
「逃げろ。あれは、人間じゃ、勝てねぇ」
「やってみないと、わからないさ」
 あっさりとした言葉。白刃を従え、異形へ向かい地を駆けた。人で遊ぶ異形へ向かうのに、迷いも躊躇いもない小さな背。
 剣士は知らなかったことだが、其の言葉のその後にはこう付け加えられていた。

「僕等、人間じゃないしね」

 白刃が振り抜かれる瞬間を、剣士は見ていなかった。見えていなかった。気が付いた時には、既に終わっていた。
 肋骨の合間を潜り抜けて、異形の心臓から短剣が生えていた。
 赤い色が迸る。あの鮮血ではなく――炎。
「おぁ!」
 密着していた影が素早く飛び退く。短剣を中心として、炎があがる。燃え上がる。赤い赤い炎。紅い炎。蛇の舌のようにゆたいながら、異形を逃がさず舐め尽くす。毛が焼ける匂いが鼻に付く。
 異形は痙攣していた。悲鳴はあがらなかった。小刻みに痙攣し、炎の熱から逃れるように身を捩り、あの血走った赤い眼で剣士達を見た。
 燃えて巡る紅い炎。救いを求めるように、空へ伸ばされたアンバランスな青白い手は、焼かれるにつれ軋んで曲がっていく。喘ぐように開いた口から悲鳴は零れず、喉を逸らし、胸を逸らし、崩れて落ちた。
 呆然としていた剣士が呟く。
「……あんた、すげぇな」
 まだ、実感が沸いていなかった。死なないと思っていたものが、こうもあっさりとなくなってしまうこと。生きていること。助かったこと。小柄な影が軽やかな足取りで近付いてくる。
「アハハ、大したことないよ。急所は見えてるわけだし、用は瞬発力」
 屈託なく笑い、ふと目を細めると言った。
「兄さんにもあったら、死ななかっただろうね」
 剣士の目が見開かれる。
 剣士も燃えていた。広がった血溜まりから炎が噴出していた。所々で火の手が上がっていた。鼻腔を刺す肉のこげる匂い。肌を舐めるように焼いていく。水分を失った皮膚が縮み、黒く変色していく。己の体が変形していく恐怖。
 絶叫を上げた。それが断末魔であると認識する間もなく、剣士は灰になる。
 灰になる。
 灰になる。
 灰になり、剣士の腕は崩れて風に散った。



 剣士は知ることがなかったが。
「サンキュ」
 金の眼のハンターの名はレラプス、
「嗚呼」
 若い男の名はイルジィンという。
 だるそうに手を掲げたイルジィンと、肩の後ろから勢いよく伸び上がったレラプスの掌が合わさり、乾いた音が真昼の空を突き抜けて高く響いた。