落ちたナイフが床を跳ねた。絨毯を埋め尽くす数多の刃は、波を無くした海。ならば、それは池か泉か。
 傾ぎ始めるテーブルを横に押し倒し、レラプスはフンと鼻を鳴らす。自ら流した血の中に伏せる盗賊頭は、敵意の消えぬ目でレラプスをねめつけた。

 ――殺す相手の目を見てはいけない

 盗賊頭と視線を絡めるレラプスの脳裏にぷかりと浮かぶ言葉。
 これは何時知ったのか。誰かから聞いたような気もするし、経験から学んだような気もする。どちらかは明確ではないが、恐らく、誰かから聞いたのだろう。何故なら、殺す相手の、この”魔女”の目を見ようが躊躇いなど生まれないからだ。
 心のままにレラプスは笑う。君達が奪い取ったものを、同じ手段で奪い返してやろう。
 肺の底まで届く濃厚な血の匂い。舌に乗せれば味がしそうなほど。痺れるような興奮が巡り、肌と血が泡立つ感覚に酔いしれながら、這い広がる血溜りに進める足取りは悠々と。
「うわっ、とぉ?!」
 そして、レラプスは絨毯につんのめった。
 揺れた視界。見えたのは真下に広がるナイフの剣山。足には絨毯が厳重に巻きついている。物を操る魔術が途切れていない。おぃ、待て、あれだけ傷を受けても抵抗できるなんて反則じゃないのか、盗賊の頭。
 レラプス、勝利寸前で蜂の巣の危機。
「なってたまるかっ!」
 咄嗟に振り上げた短剣を床に突き刺し、爪先立ちと短剣×2というアンバランスなバランスでレラプスは蜂の巣を免れた。負荷のかかる両腕と爪先が、生まれたての子鹿のようにぷるぷると震えている。ブーツの爪先に鉄仕込んどいて良かった。
 腹や足、胸に浅く刺さるナイフは適度な刺激。とか、言っている場合でもない。血を滴らせた盗賊頭が、よたつきながらも扉の外へと逃げ出そうとしていた。
「待たんくぁあぁぁぁぁぁ!」
 レラプスは前屈み爪先立ち短剣×2という四つん這いもどきでナイフを蹴散らしながらしゃかしゃかと盗賊頭を追う。その姿は蜘蛛かワニか、あるいは、台所に良く出てくる黒いアレに酷似していた。
「ギャァァァァァ!! 人の権限を捨て去った格好で追って来るんじゃねェー!!」
「誰の所為だー!! 格好良く勝者の気構えで悠々と追おうとしてた僕の心の内を考慮してくれれば、一生これをネタに笑い続けられるような恥の格好で追わなくて済んだんだぜ?!」
「生きるか死ぬかの瀬戸際でンなもん考慮してられっかー!」
「それもそうかー!」
 納得してしまった。
 レラプスがナイフの山に手間取ってる間に、盗賊頭の姿は扉の外へ消えてしまう。血痕が残っているため追うには事欠かないが、ぐずぐずしているとあの程度の傷ならば癒えてしまうだろう。
「逃がすかーっ! 今の僕は音速を超える!!」
 気分的に音速を超えたらしいレラプスの体は、ナイフ剣山を飛び越えて一直線に扉の外へとスライディングを果たした。石畳が足の表面を擦り、服が燃え上がりそうな摩擦熱が発生する。未知の刺激に手下Mの如く身をくねらせて悶えながらも、危うい一線を越える前に、何とか盗賊頭を追うべく顔を上げたレラプスの目へ飛び込んできたもの。
 両側を挟む高い建築物の壁。右は先ほどまで居たところ。左は穀物を蓄える場所のはずだ。換気のために設けられた通気窓に鉄柵が張り付いている。遮られた陽光が建物の屋根で散っていた。
 盗賊頭のハゲ頭は予定通りだけれど。
「動くんじゃねェぜ?」
 予定外なものもある。
 レラプスは肩を竦めて、構えていた短剣を下ろした。
「人質?」
「そんなとこさァな」
 白く細い首に添えられたナイフの冷ややかな輝き。
 盗賊頭の腕の中に、後手に縛られた娘が納まっていた。歳は17か18あたりだろう。黒レースに裾を縁取らせた、鮮やかな青染めのドレスを着込む娘。結わい上げられた髪色は金色。白く華奢は腕と足。顔からは血の気が失せていた。意識は失っておらず、硝子球のような青い目が力なく瞬きを繰り返していた。
 そこから何メートルも離れていない場所に、同じく縛られたままのメイドや使用人たちの姿が見える。蓄えた髭を涙と泥に塗らして、無様に声を張り上げる男の姿も。
「止めてくれぇぇぇ……娘を殺さないでくれぇ。何でもする、殺さないでぇ。娘を娘を、おっ、ぉ、ぉ、ぉぉ」
 場の雰囲気など構いもせず、懇願の、呪詛でも吐くような、魂を削るような、泣き啼く声。
「娘、ね」
 父親か、とレラプスはひとりごちる。男は泣く。恐怖に彩られた顔を晒しながら泣き鳴き嘆く。
 無様だった。何でもする。それは服従と同意義だ。人殺しを命じられたなら、人を殺さねばならない。自ら命を絶てと言われたなら、絶たねばならない。一切の弁解も許されず、従うのみを強要され、甘受する。それが「何でもする」ということだ。それを知ったとしても、あの男は「何でもする」という言葉を違えないだろう。殺せと命じれば、躊躇いながらも殺すだろう。死ねと言えば、死ぬだろう。あの娘が盗賊頭の手にある限り。だからこそ、無様。
 その男の姿に誰かの影が重ね、レラプスは首を傾げた。重なった影は誰だったか。引っ掛かった人物の像を手繰り寄せる。
 重ねた人物は誰だ。
「ああ、そうか」
 思い浮かんだ人物にレラプスはくつくつと笑い声を落とす。
 胸につかえていたわだかまりが解けゆく。
 無様な父親に重ねた店長の姿。
「なるほど、君は正しいよ、イルジィン」
 ああ、従わせるというのはこういうことだ。簡単なことだ。生きたモノを壊れるまで使い続けたいのであれば、絶対服従するまで飼い慣らすか、弱みを握って縛り付ければいい。弱みが無いのなら、作るまで――そのためにあの少女は必要だ。あの娘と父親のように。
 ならば。
「いいよ、殺しても」
「なァ…ッ?!」
 盗賊頭と娘の父親の顔が驚愕で凍る。それが少しだけ面白くて、楽しい気分になる。
 青白い顔の盗賊頭。血が足りないのか、恐怖からなのか。震える指に引き上げられたナイフが娘の肌を傷つけ、一筋、血が流れた。
「君の思う命と僕の思う命が、等価であるなんて思わないほうがいい。僕は何人犠牲にしようが、“魔女”を殺せればそれでいいんだからさ」
「ばッかかよ、テメェ!」
 いきりたつ盗賊頭へ、レラプスは肩を竦めて返す。
 ゆったりとした足取りで、レラプスは盗賊頭へと近付いていく。父親の声は聞えない。
「カウントはサンから」
 何の、と問う声はない。青白い肌に埋め込まれた二対二組の視線がレラプスの顔に注がれる。
 これは賭け。終わりの決まっている賭け。掛かっているのは娘の命。”魔女”の死は決定事項。
 一人で逝くか、道連れに逝くか。
 さあ、選べ。
「サーン」
 敵意。
 恐怖。
 希望。
 失望。
 誰かへの愛しさと、僅かばかりの後悔。そして、生に縋る願望。
 死に迫られた人間が見せる感情は大差ない。
「ニーィ」
 盗賊頭の背後に、ふわり、と影が立った。
「イーチィンォぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
 その影が長い足で行った蹴り飛ばす動作に合わせて――というか、蹴り飛ばしたに違いないのだが――レラプスへぶっ飛んでくる盗賊頭の手には、しっかりとナイフが握られたままだった。
 まるで狙ったかのように心臓目掛けて滑り込んでくるナイフを、短剣で白刃取り。それでも止まらない盗賊頭の顔面に踵を落として地面に叩きつけ、レラプスは一命を取り留めた。
「何するんだ、イルゥゥゥゥァアァァ!」
 影=イルジィンだったりするのである。両側の壁に阻まれて落ちる影の中の影。腕中で翻るドレスの青の彩り。イルジィンは、人質となっていた娘を両腕に抱え、何時もの如く無表情で立っていた。
「助けただけだが」
「助ける方法に問題があるわぁ! 危うく僕が死ぬところだったよ! それか! それが狙いなのかーっ?!」
「死んでいないだろう」
 否定しやがらねぇよ、こいつ。眼前の敵よりも背後の味方が危険ってどういうことだ。
 眼前から足元になってしまった盗賊頭を靴で踏んで見下ろして、レラプスは苛立たしげに頭を掻く。賭けは勝ちでも負けでもなさそうだ。予測不能の大穴が賭け商品を掻っ攫っていったというところか。何時もそうだ、何時も何時も美味しい役をイルジィンが攫っていく。やり方に問題はあるが、結果としては悪くないから文句も言えやしない。
 レラプスは顔を上げて眉を顰めた。ようやく異変に気が付いたのか、路地の外が騒がしくなってきている。徐々に人が集まり始めていた。
「ああ、その追求は後でするとして、さっさと終わらせて戻ろーか。見つかったら色々面倒だし」
 虚ろな視線を虚空に向ける盗賊頭へ、レラプスは短剣を振り上げた。夜に浮かぶ銀の月の如く照り返る。盗賊頭の心臓へ無慈悲な刃が食い込む前に、”魔女”が絶命させられる前に、イルジィンの声が聞えた。
 この距離なら、聞き違えようがないから、聞えてしまった。
 腕に抱いた娘の瞼を覆い、イルジィンは低く囁く。

 ――見るな

 お優しいことで。
 飛び散る赤い飛沫。生暖かいそれが頬に付着する。舐めたら鉄錆の味がした。苦い気もする。肉に突き立った短剣を引き抜きながら、レラプスは深く息を吸い込んだ。染み渡る。判る。
 ”魔女”は死んだ。
 パチン、と指を弾いて音を鳴らす。
「燃やせ、イルジィン」
 返答は無い。だが、弾いた指の音が反響する前に、”魔女”の血も肉も、炎に包まれた。
 紅蓮の炎。夕日のように赤く、血のように淀んだ炎。ちりちりと這い回り、”魔女”を焼く。匂いすら残さずに一瞬で灰に変える。 ”魔女”の存在だけを灰に変える。服や頬に付いた血も丁寧に。肌や服を這う炎に熱を感じなかった。
 顔を向けると、食堂内の血も炎は焼いていた。残るのは、敷き詰められたナイフと、穴の開いたテーブル。センスも何も無く散らばった彫刻。闘いの残骸。これだけで済んだなら幸運だろう。
 レラプスは、いまだ青い顔の侭の主人と使用人達に振り向いてにこやかに言った。
「僕達の事は……言ってもいいけど、どうなるかは自分で考えてね?」
 言葉と笑顔の裏に潜ませた脅し。理解できないほどこの人達は馬鹿じゃあないだろう。寄せ合って震える体と怯えた表情が物語っている。満足げに踵を返して、レラプスは後ろ手に手を振った。
「イルー、戻るよ」
 視線の先のイルジィンは、助けた娘を主人へ返していた。どちらの縄も切り解かれている。まめな奴だ。
 抱き合う娘と父親。父親は泣いていた。娘は力なく笑いながら、父親の頬を撫ぜる。細い手首に荒々しく残る縄の後。白い首に残る赤い筋。恐らく心にはそれ以上の傷があるだろう。
 命を捨てられたという、深い。
 視線を逸らし、店の入り口へ向かって歩きながら、レラプスは傍らに寄ってきたイルジィンを見上げる。喉から言葉として出るのは、軽くおどけるような声。
「あ、そうそう。答えを出したよ。あのお嬢ちゃんと仲良くすることにしたから、仲持ち宜しくね?」
「……置く気になったのか」
「うん、まぁね。利用できるもんは利用しなくっちゃと思ってさ」
 レラプスは目を細めて、くすり、と笑った。背後のことなど忘れたかのように振り向きもせず歩いていく。その後にイルジィンは続いた。

「そうか……」
 見通せぬサングラスの奥、イルジィンは、ただ誰にも知られることなく瞼を落とした。