一話   例えば、鳥で無いとして

 夕刻を告げる鳥の声。風に乗るは潮騒か。男は耳を傾けた。
 路地に沿って建てられた宿屋の二階に、開け放たれた窓が一つ。その宿にカーテンなどという上質なものはない。阻まれる物なく吹き込む風が、簡素なベッドに腰掛ける男の髪を穏やかに揺らした。褐色の肌の上、流れる黒髪の奥、同じく、黒曜石のような瞳が膝元の剣を眺めていた。
 男は油の染みた布で、剣の腹を撫ぜる。突刺するために特化された刀剣――エストック。手入れ途中の剣は、男の手元で涼やかに赤い陽光を照り返していた。赤いフィルターを掛けたように淡く色付く部屋の中、唯一動くのは男の影。一種の静寂――が。
 けたたましく床板が軋む音によって、それは唐突に破られる。耳障りな物音。軋ませたのは影。開け放たれた窓から飛び込んだ影が、床に激しく身を打ち付けて部屋を転がり、壁に当たると、ようやく動きを止めた。
 男の目が、煩わしげに、訝しげに細められる。同時に、抜き身の剣を利き手に持ち直した。方向を誤った鳥が舞い込むことは珍しくない。しかし、鳥にしては些か大き過ぎた。
 沈殿していた埃が舞い上がり、光を帯びて金に散る中、銀色を弾き返す長い髪。髪に埋もれながら額に巻かれた布と、四肢を隠した襤褸のような服の鈍色。
 男の眼差しと絡んだ眼。――灰の。
 鳥と疑った其れは、人の形をしていた。人の娘。
 男の眼差しに当てられた娘は、怯んだように身を強張らせた。抜き身の剣を見たためだろう。だが、男は動かない。荒い息を整えて唾を飲み込み、意を決したように、娘は言う。
「ごめんなさい、かくまって!」
 窓から飛び込んできた娘は、そう言うが否や、ふらつくように部屋の隅へ身を寄せた。男とは逆側の、外からは死角となる位置。娘は小さく身を縮め、肩で大きく息をしながら、けわしい目付きで窓を睨む。
 座り込んだ娘の目線からでは捕らえられないだろうが、窓際のベッドに腰掛ける男からは、裏路地を連なって掛ける数人分のつむじを見ることができた。
「畜生! 何処に行きやがった!」
「見失ったか」
 続いて響く、怒鳴るに似た遣り取り。
「ちっ、探せ!」
 大げさな舌打ち。追う獲物の心情を掻き乱し、冷静さを欠かせるための戦術でもある。それを知ってか知らず香、娘は窓に向けた視線を逸らそうとしない。動く気配もない。
 日は完全に没した。残光にて、窓硝子がてらてらと光る。男は目を伏せ、握った剣の柄を膝に付けて横たえると、手入れを再開した。
 娘が身じろぎしたことを、男は布擦れの音で知る。
「もう少し、ここにいていい? 今、出て行ったら、見つかりそうだし……」
 布を巻き込む男の指が、なれた動きで丁寧に剣の刃を撫でる。男は剣から目を離すことなく、独り言でも呟くように答えた。
「追手を招くような真似をしないのであれば、一時の匿いの場所程度は提供してやるさ」
「……ありがとう」
 娘は安堵を滲ませて、壁の凹凸に背を擦りながら座り込んだ。張り詰めていた筋肉の緊張を解いて、無防備にへたりこむ。膝の間に頬を埋め、目を閉じる。
 く、と男は喉で笑った。
「素直だな、嬢。逃げ延びたいのであれば、全てを疑えよ。見知らぬ者の舌先など、信用に値するものでは無い」
 膝を抱えた娘の肩がぴくりと震え、解れた筋肉が再び張り詰める。瞼が重く持ち上がる。汗に濡れて張り付いた銀髪の間から覗く灰色の瞳が、真直ぐに男を見つめ、娘はさも大切なことのように、それはそれはとても真剣に呟いた。
「次から、気を付ける」
 細身の刀身を磨きながら、男は静かに息で笑った。笑わずにおれようか。匿った程度で人に信用を置く、娘の単純さと無謀さに。世間を知らぬ娘。長生きはできまい。追手に捕らわれるか、人攫いに捕らわれるか。さして差のない結果。どちらに終わろうと、関係のないことではあるが。
 男の笑いに、娘は困惑したように息を詰める。しかし、それ以上、男が何も言わないと知ると、恐る恐るといったように疑問を口にした。
「お兄さん、旅人?」
 娘が問い、
「そうとも言えるな」
 男が答えた。
 沈黙が落ちる。男はさして気にも留めず、まるで娘などいないかのように、黙々と手を動かしていた。その作業を眺める娘の唇が震え、何か紡ごうと口を開いたが、結局声を出せずに、吐く息にあわせて、そろそろと口を閉じた。近くではないどこかで、馬車の車輪がカラカラと回る。群れた鳥の影が、建物の凹凸を這いながら窓を横切って消えた。
 一刻にも満たない時間。男が手に付いた油を拭い、剣を鞘に納めたのを見届けて、ようやく娘は言葉を発する。
「何も聞かないのね」
「人の事情を突くような趣味は無いでな」
 男は緩慢な動作でベッドより腰を持ち上げ、夜風を呼び込む窓を引いて閉めた。外には淀んだ闇。窓辺に新品同様の蝋燭が立掛けてあったが、それに火を灯すことなく、男はベッドへ戻る。火がなければ、何も見えないということはない。灯りはある。闇に慣れた目は、微弱な星明りにも反応を示す。星明りでなくとも、隣、または向から差し込む光で、灯りには苦労しない。当分、蝋燭は新品のままだろう。
 脱出口でもある窓を閉められても、娘に動揺はない。同じ姿勢、同じ目線の高さから、娘は男を見上げている。男の眼差しに気付くと、娘は戸惑ったように目を泳がせ、小さく、本当に小さく呟いた。
「旅に、ね、ついていきたい」
 呟いてから、娘は酷く罰が悪そうに顔を顰める。両の手を擦り合わせて肩を縮め、しどろもどろに付け加えた。
「途中まででいい、から。見ての通り、追われてて……私は、この街以外、あまり知らなくて。誰かの案内がないと逃げ切れない、から」
 彷徨う視線は膝に落ち、語尾が小さくすぼんで消えた。
 男は小さく息を吐く。無謀な娘。もしくは、無謀な選択をせねばならぬほど、追い詰められた娘。その娘は、男の答えを待っている。
「俺に追手を押し付けるつもりかね」
「違う!」
 弾かれたように顔を上げた娘の言葉を、男は滑らかに阻む。
「面倒事と持ち出すのは他所を当たれよ、嬢。嬉々として受け入れるのは、面の厚い偽善者か、大層なお人よしだろうが、俺は、そのどちらでも無い」
 拒否の言葉によって。
 す、と娘の顔から憤りの表情が引いた。喉から出かかった言葉を飲み込んで、震える口元を引き結ぶ。顔を伏せる直前に見えた表情は、まるで身を斬られたかのようなものだった。理不尽に切り刻まれる、その痛みに耐える顔だった。裏切られたような。諦めかけた。泣く前の、泣きそうな。
 硬く息を吐いて、娘は言う。
「ごめん」
 壁を支えに立ち上がると、娘は踵を返した。螺子の外れかけたドアノブを回す。
「かくまってくれて、ありがとう」
 振り向かぬ娘の表情は窺えない。姿は閉じた扉の間に潰れ、遠ざかる気配は止ることなく、床を踏む軽い足音が徐々に遠退き、消える。
 消えるまで、見ていた。娘の気配が消えるまでは、男の眼差しは扉に注がれていた。部屋はいつもの姿へと戻る。娘の気配と声に掻き消されていた潮騒が帰ってきた。
 男は手入れを終えた剣を枕元に立掛け、ごろりと横になった。軋むベッドの骨組みが、薄い毛布を通して背に当たる。ふっ、と隣の部屋の灯りが消え、灯りに慣れていた視界が暗闇に沈む。寝やすいとは言いがたい寝台の上で、男はまどろむように思案する。
 窓枠を揺さぶる強風に、先刻の顔が浮かんだ。
「何処で」
 口を付いた問いは、意外にも大きく響いた。失態でも侵したかのように、男は眉を潜める。
 何処で。あの娘は何処で夜を明かすのか。寒さの抜けきれぬこの強風の中、空腹に耐え切れず、逃げる事を諦めるだろうか。あれぐらいの歳の娘が追われているのは、珍しいことではない。各地を巡っていれば、否応なく目にする光景だ。人攫い、奴隷、身売り。違和感無く、娘の姿は当て嵌まる。
 もしも、この先、何処かの奴隷市場で、何処かの娼婦館で、あの娘の姿を見たなら――覚えていたなら、今宵の行動を、悔やむだろうか、責めるだろうか。
 真直ぐに見返して来たあの灰の目が、奈落の底のような光の無い硝子玉になることを。
「……つまらぬ考えだ」
 男は、思考を区切るように寝返りを打って瞼を落とす。
 匿うだけの、一刻に満たぬ、僅かな時の縁。眠れば二度と思い出すこともあるまい、と。
 浅き眠りは直ぐに訪れた。


 宿の主人に見送られ、男は宿の扉を潜った。持つのは纏めた荷物一つ。朝方の冷気は湿気を持って肺に流れ込む。連なる石造りの壁にうっすらと付着した水滴。夜明けからは時間は経っているものの、人が目覚めるには早い時刻。明け方前の仕事を終えた漁師が行う競りの喧騒が、潮騒と共に届く。
 路地を見遣ると、そちらは静まり返って物音一つしなかった。夜に住まい、夜こそ騒ぐ者達は、深い夢に落ちている最中だろう。
 男は郊外を目指すべく道を選ぶ。さて、どちらが早いか。
「おはよう。案外、出るの遅いのね」
 聞き覚えのある声に、思考を中断させられる。背後から近付く足音へ振り返ると、思い浮かべた人物が立っていた。姿は多少変わっていたが。
 灰の眼。不恰好なほど大きな男物の服。額に巻かれた襤褸布。丈のあわぬ袖や腰まわりを、細く折った布を帯として、幾重にも巻いて括っている。銀の髪は短く、不器用に揃えられた毛先が、朝の光を吸って弾き返していた。
 口を噤んだ男へ胸を張り、娘は屈託なく笑った。
「他に頼るとこなんてないのよ。面の厚い偽善者も、大層なお人よしも知らないし」
 その、一片の陰りも見えない快活な笑顔。
「ついて行かせてもらうから、よろしく」
 昨夜の謝罪は何に対してであったのか。男は呆れたように溜息を零し、娘へ何も言わぬまま歩き出した。どうにかする気も起きず、どうにかしたいとも思わなかった。
 背を向けた男を娘は足早に追いかける。男を追う声。
「待ってよ、何か言ってよ。一晩かけて考えたのに、つまんないじゃない!」
 何を、と問い掛ける気にも、やはり、なれなかった。つまらぬで済まされる問題なのか。
 男の足は一定の速度を保つ。娘は男の左側により、着かず離れず、一方後ろを短い歩幅でついてきている。無意識か、意識的にか、剣の間合いの外だ。
 もう一度突き放すべきか、捕まえて転がしておくべきか。または、この剣を抜いて脅すべきか。逃げる動物は、害を与える生き物に敏感だ。甘く接すれば懐かれる。肌を裂き、腕の一本でも貫けば、ついてくるという決心も揺らごう。ただ、剣を抜き、振るうだけで終わる。
 男は目を伏せ、腰に佩いた剣に意識を寄せた。振るえば終わる。鞘を左手が支え、右手が柄へとかかる。振るえば――
 泣く前の、泣きそうな、痛みに耐える事に慣れた顔を――また。
 知らず、短い嘆息が漏れた。
「……面倒だ」
「ん、何?」
 呟きを聞き取れずに、娘は首を傾げる。
 男の手が柄から離れる。先程の言葉を繰り返すでなく、ただ一言、長く吐く息に乗せて答えた。
「好きにするが良いよ……」
 許した。
 途端、娘の顔が嬉しげに輝く。今にもスキップに変わりそうな足取りで、離れていた一歩を詰め、男の傍らへ軽やかに並んだ。男は微かに顎を動かし視線を下げ、視界の隅に入り込んだ銀色の頭に一瞥を向ける。娘の浮かべている満悦の笑みを見ると、一つ瞬いて、再び道の先へ視線を戻した。
 手が触れる程は近く無く、それでも、傍らと呼べる距離にて、
「んふふ。……ね、私はレンシア。お兄さんは?」
 笑みを含んだ問いの声。男は空を仰ぎ、名乗る名を求めて記憶を掘り返す。
 目覚めたばかりの脳を回転させる。
 名は。
「――クラフ」
 雲一つない空は高く、ひたすらに青い。